栗田 茶の湯のことは日本では一種の一般教養なので、専門家に聞くと、あまり疑問を持たずに身体で覚えておられたり、歴史的なことを知らずにやっておられて、教えてもらえなかったり、そんなことも知らんのかと呆れられたりして、なかなか聞きづらいものだ。今日は、歴史家として茶道研究をしておられる谷先生だから、あまり恥ずかしいと思わずに、メンバーからもいろんなことをお聞きしたい。
谷 こちらこそ。嗜好品研究という立場からの議論を楽しみにしている。
総合芸術性
栗田 茶の湯というのは、先ほど言われた茶室・茶道具・点前という3大要素の中に、茶室までの路地などの外構、茶室の中の掛け軸や茶花のしつらえ、抹茶・菓子・茶懐石、主客の着る着物など非常に複雑な文化を取り込んだ総合芸術だと思う。以前我々の研究会で出した『嗜好品の文化人類学』には、各地域を研究している専門家から、紅茶・コーヒーやカートにもそれを嗜むための儀礼がある、と報告をしてもらったのだが、茶の湯ほどの複雑な要素を取り込んだ総合芸術性は、それらにはないと思う。いかがでしょうか。
谷 ほかの嗜好品の例は知らないが、文化人類学者がそう言われるのであれば、それぞれなにがしかの儀礼的なものがあるのだろう。英国のアフタヌーン・ティーは、いろいろ約束ごとがあるだろうし。
栗田 英国の事情に詳しい井野瀬さんが今日はお休みなので、彼女の意見を聞けないが、本格的なアフタヌーン・ティーは、英国ではもうやっていないと思う。逆に英国から伝わったインドには少し残っている。先日私はカルカッタでそれを体験したが、茶の湯ほど複雑で総合的なものではなかった。
梅棹先生は、ある思想に基づいて制度や装置群が作られていたらそれは文明である、と言っておられたが、そういう意味で茶の湯は単なる文化でもなくて、一つの文明と呼んでいいと思う。しかも、その文明の総合プロデューサーは家元であって、それに千家十職と呼ばれる専門職人集団が従っている。日本文化にはさまざまな家元があるが、茶の湯ほど高度な専門性と、総合芸術性を備えたものは、ほかにない。茶の湯は日本文化の中においても突出した存在だと思う。
谷 そういうふうに言えるかもしれない。
独特の美意識
栗田 これは民博で同僚だった熊倉功さんの指摘していることだが、茶の湯の美意識というものは、ヨーロッパのように普遍的な美を主張しないで、何代家元の「好み」という表現をする。これも西洋の思考法になじまない、わかりにくい特色だ。これは西洋だけではなく、お隣の韓国の人にさえ、理解が難しいようだ。例えば今日、谷先生が「わびの属性」の最初に挙げられた「不均斉」という美意識だが、こんな歪んだ茶碗のどこがいいのだ、と韓国の人は言う。ついでに言うと、韓国の人たちというのは、非常にアスピレーション(階層向上意欲)が強くて、何百年・何世代も一つの職人に従事し、家元に従っているというのが理解できないようだ。
谷 最近は韓国でも茶文化が流行していて、理解者が増えてきているが、かつてはそうだったし、いまも一般的にはそうだろう。
白幡 私は造園の専門なので思うのだが、茶室に至る路地の飛石の配置なども、右へ行ったり左へ行ったりまっすぐではないし、捨石のようなものが配置されていることにも、先ほど栗田先生が言われた茶碗の歪みと似た独特の美意識、数寄というのがあると思う。
谷 しかもそれが、あまりにわざとらしくウケを狙ってはいけない、わびでないといけないので、そのあたりも非常に感覚的で、説明が難しいところ。一筋縄にいかないところだろう。
白幡 「数寄」で自由にやるけど、「わび」でそれをセーブするということか。そのあたりが微妙なところか。
栗田 だから茶の湯の世界の美意識というのは、パンデミック(普遍的)なものではなくて、エピデミック(特殊)なものだと思う。
藤本 ところが、普遍的な美を主張していると一般的に思われている美術の世界で、茶の湯を下敷きにしているのではないかと思われる傾向が世界的にある。モダン・アートは、傑出した天才芸術家が不朽の名作を作っているのに対して、コンテンポラリー・アートは、個人ではなく集団、主体性ではなく主客の融合。不朽の名作を目指すのではなくて偶然の出会いの重視、環境依存・文脈依存で、一時的一回的、むしろその場限りでなくなってしまうほうがよい、という考えだ。こういう要素を集めると、茶の湯の美学に近いものになる。だから、コンテンポラリー・アートのアーティストは、世界中でこっそり茶の湯の原理を盗んでいるような気がする。
谷 なるほど、そのご指摘は面白い。
栗田 お点前という行為を、一種の芸術に高めたのは大変なことだ。最近の博物館の展示の傾向として、職人さんが何か作っているところを見せるというのがあるが、観客にはその見事な手さばきや技術が、芸能の場合と違ってなかなか理解できない。見られているほうが何となくみじめな気分になってしまう。それに対してお点前は、見ていても美しい。ものを作るという行為をあそこまで美しく見せるというのは、大変な稽古を積んだ洗練の結果だと思う。お点前は芸能だと言うと、違うと言われるが、亭主の満足感・充実感というのは、それに近いと私は思う。外国の人には、あの美しさは理解できるのだろうか。
谷 外国人にわかるかどうかということはわからないが、少なくともお点前に感動したというのを私は聞いたことがない。むしろ、あんな狭いところでこちょこちょやるという全体的な雰囲気には驚くようだ。
作法
栗田 茶室へ靴を脱いで入って正座をさせられるということへの苦痛や不満は、よく聞きますね。椅子式で茶の湯をやる立礼(りゅうれい)というのは、これだけ日本人の生活が洋風化して椅子生活になっても、なかなか流行らない、普及しない。なぜだろうか。
谷 茶の湯というものが、日常的なものではなくて、非日常的な楽しみになっていることと関係あるのだろう。せっかく日常と違うことをするんだから、お茶室でやらないと雰囲気が出ない、満足できない、ということがあると思う。
白幡 茶の湯の作法も固定したものではなくて、変化してきているというお話だったし、非常に生命力のある文化だから、将来どうなるかわからない。もしかしたら、立礼が流行るかもしれない。裏千家前家元千玄室さんは、海外のあちこちで立礼でやっておられるし、武者小路千家次期家元千宗屋さんもやっておられる。
疋田 彼は立礼の普及に熱心ですね。東京では立礼でお稽古をしておられるようだし、去年文化庁の文化交流使としてアメリカ・ヨーロッパへ行って、自分で考案した組み立て式の立礼のテーブルセットを使って、あちこちで実演講演をしておられた。
藤本 茶の湯での袱紗の使い方は、キリスト教での聖杯の拭い方の影響だ、というピーター・ミルワードの説があった。日本の増渕宗一さんという美学者は、逆にあれは日本の茶道の作法をキリスト教が真似たというのだが、どちらも証拠がない。あれはどう思われますか。
谷 宣教師が来た時代には、あの作法はもう確立していたと思うので、宣教師の真似をしたという説には私は同意できない。だからと言って、茶の湯の作法をキリスト教が真似たというのも、キリスト教の本山とは距離がありすぎて無理がある。格好よくやろうとすると似てくる、偶然の一致ではないか。
栗田 茶の湯は上流の経済的に豊かな階層の文化だと思うが、逆に、秀吉の北野の大茶会を例に、非常に身分解放的だったと言われることがあるのだが、そのあたりはどうなのだろうか。
谷 抹茶は高価なものだったので、百石以上の武士、豊かな商人、農民でいえば豊かな庄屋クラスでないと嗜むのは無理だったと思う。秀吉の北野の大茶会の意図がどこにあったのかは、秀吉という人は非常に複雑な思考をする人なのでわからないが、単なる思い付きではなく、自分の富や文化性を見せびらかすという意図もあっただろう。だから、あれをもって茶の湯の身分解放性を言うのは無理があると思う
さまざまな地域の茶の飲み方・作法
栗田 利休とは別に、地方で独自に発達して残った、茶の飲み方・作法というのはあるのだろうか。例えば琉球のぶくぶく茶のような。
谷 言語や芸能の分野では、古い型が都からみると辺境に残っているという現象はあるが、琉球のぶくぶく茶にしろ、松江のぼてぼて茶、富山のばたばた茶にしろ、利休より後、むしろ明治期にできたものだ。利休より古い型を残しているというものではない。
松江のぼてぼて茶は、もともと仏教行事や講で飲まれたものだ。今はそこから離れて飲まれている。富山のばたばた茶は、後発酵茶を使う、非常に変わったものだ。発生起源はよく知らない。
栗田 以前、我々のグループで海外の都市における嗜好品の調査をしたことがあるのだが、韓国ではあまり茶を飲まない。それは茶が仏教と結びついたものという印象があるからだということだった。
藤本 そうだったですね。でもあの後、何回か韓国に行く機会に注意してみていると、けっこう緑茶を売ってるみたいで、変わってきているようだ。
谷 韓国では水を飲む。お茶は、日本で日常的に飲むほどには飲まない。でも最近は、韓国の人もけっこうお茶を飲んでいる。流行っているようだ。中国と韓国はFTAを結んでいて、お茶は中国から随分輸入している。
疋田 韓国に、茶の湯のような確立したものはあるのだろうか。
谷 日本の茶の湯をそのままやっている人たちがいる。日本の抹茶は評判も高い。しかし、韓国の人は日本の真似を嫌って、むしろ韓国が日本に教えたのだと言いたがる傾向がある。これは朝鮮王朝時代の茶の飲み方だとか、高麗王朝の時代のだとか、五行説に基づいているとか、仏に供えるということでやっている人たちもいる。家元のような存在はないのだが、いろんなグループがあって、人数を競い合っている。百花繚乱の状態だ。非常に活気があって、盛んになっているような気がする。
疋田 そういうのも研究してみると面白いかもしれない。助成研究で、誰か大学院生が研究してくれないかな。
栗田 今日は、谷先生だからこそあまり恥ずかしいとは思わずに、興味深く面白いお話をうかがえたと思います。有難うございました
(平成23年7月23日)