嗜好品文化研究会


平成23年度第2回研究会:嗜む人と嗜まない人の間のルール

「嗜好品の自由と規制をめぐる正義論的考察」 佐藤 憲一

ゲスト講師●佐藤 憲一/さとう けんいち●千葉工業大学准教授。1969年生まれ。福岡県出身。専門は法哲学、法社会学、応用倫理学。現代における法秩序と法的コミュニケーションのあり方について、さまざまな考察を行う。共著に、『法社会学の可能性』(法律文化社)、『いのちの選択──今、考えたい脳死・臓器移植──』(岩波書店)など。主な論文に「死の権利化に抗して」(『現代思想』32巻14号)など多数。



鴨川という境界線
 行きの新幹線では、車窓から富士山がくっきり見え、名古屋を過ぎると大きな虹も目にすることができ、とても幸運だった。この会場に向かう途中に通った相国寺の境内も、紅葉が鮮やかで、思わず立ち止まって写真に撮りたくなるほど美しい。かつて私はここから3分ほどのところに下宿していた。本日ここで報告するに至ったそもそものきっかけは、そこに下宿したことにあるのかもしれない。
 私は福岡県出身で、入学式ギリギリに京都に来たため、下宿探しには非常に苦労した。不動産屋は、大学から遠く離れた、左京区の北の方の物件ばかり勧めてくる。だが、リストを見ると、鴨川を渡った上京区内にたくさん物件が残っていた。そちらの方が大学に近く、利便性も優れている。不動産屋は良物件を隠していたのだ。
 入学式が過ぎ、どうしてそんなところに住んでいるのだ、と訝しまれる日々が始まった。不思議なことに、どれほど遠く不便なところでも、そこが左京区内であれば、同情はされるが疑問は抱かれることはない。ところが、鴨川を渡ってしまうと、距離や利便性に関係なく、一様に不審の念を抱かれるのである。
 後で分かったのだが、鴨川の西側は「同志社文化圏」と呼ばれ、京大生は無闇に立ち入らない領域だとされていた。不動産屋は悪徳業者ではなかったのだ。鴨川は単なる河川ではなく、文化圏を分かつ決定的に重要な境界線として位置づけられていたのである。
 自律的な判断をしていると自負する京大生が、合理的に説明できないことに囚われていることが不思議だったが、私もいつしか京大生としてのアイデンティティを確立し、自分がタブーを犯しているような気になっていった。これが、文化ということを考えた最初のきっかけだったように思う。


肉まんを買うと
 肉まんを九州で買うと、必ず「酢醤油」が付いてくる。肉まんの皮に染み込んでとてもおいしい。関西では「からし」が付いてくるが、それに慣れるまでに10年かかった。ところが、関東に行くと何も付いてこない。それぞれの地域では、それが当然であり常識である。そこにずっと住んでいる人は、別の可能性があることを想像すらしない。これがまさに文化である。
 私が在籍した法学部では、人が何を好み、どう振舞うとしても、それはその人自身が自由に選んだことだ、と考える傾向が強い。思想や行動の源泉をあくまで個人の内部に求める個人主義的な発想である。各人は各人の自由意思で何でも決めているのだから、ある地域で誰もが肉まんに酢醤油をつけたがったとしても、結婚するカップルの大半が夫の名字を採用したとしても、それは偶然の一致に過ぎない。自分の意思でそれを選ぶ人が、たまたま多かったり、少なかったりするだけなのだ。
 しかし、文化の出る幕を否定するこの思考様式は、実はそれ自体が法学部の文化なのではないだろうか。学部や大学をまたがるサークルに所属した私は、個人ごとの違いにもまして、学部ごと、大学ごとの違いが非常に大きいことに気づかされる機会が多かった。この違いはまさに文化の違いである。こうして私は、文化というものが人間の生活に深く根ざしている、と思うようになっていったのだ。
 今回嗜好品文化研究会に呼んで頂いた直接のきっかけは、棚瀬孝雄先生がまとめられた『たばこ訴訟の法社会学』(世界思想社2000年)の中に、「嫌煙の論理と喫煙の文化」という文章を書いたことである。こういう文章を書くと誤解されることもあるが、私は喫煙者ではない。以前から、近代の法や政治の論理、パラダイムに疑問を持っており、それを考える一つのきっかけとして、たばこという嗜好品を扱っただけである。今日は、たばこを中心に「嗜好品の自由と規制をめぐる正義論的考察」を試みたい。


自然科学と正義論
 ザイン(Sein)とゾレン(Sollen)というドイツ語がある。現実がいかに「ある」のかを考えるのはザイン(存在)の学問であり、いかにある「べき」かを考えるのはゾレン(当為)の学問である。宇宙や生物がどのように「ある」のかを探求する自然科学はザインの学問の典型であるが、人が守る「べき」社会の決まりを考える法学や、国がこれから実現す「べき」政策を考える政治学は、ゾレンの学問に属している。
 しかし、現在、法学の主流は現行法の解釈であり、政治学の主流は現実政治の分析である。どちらも、法や政治というゾレンを対象とした学問であることには違いないが、ある「べき」法や政治を対象とするのではなく、現に「ある」法や政治を対象としているという点では、ザインを対象とした学問であるとも言える。要するに、現在の法学・政治学の対象は、ゾレンそのもの(ゾレンとしてのゾレン)ではなく、ザインとしてのゾレンなのだ。
 法学や政治学はもともと、法はどうあるべきか、政治はどうあるべきか、を考える学問だった。法や政治のあるべき姿、正しいあり方を論じる正義論が、法学・政治学の中心だったのだ。では、なぜ現在のようになったのか。それは、自然科学が発達し、大きな成功を収めたことで、自然科学こそが学問の代表だと考えられるようになったからである。
 自然科学は、客観的な事実を認識する営みである。こうした営みだけが学問であるのなら、正義論は学問の世界に居場所がない。法学・政治学が学問の世界に残りたければ、現にある法や政治を対象としなければならなかったのだ。
 正義論は、法哲学・政治哲学と呼ばれる領域に属している。ともかく学問の中では、役に立たない、客観性に欠ける、とみなされ、非常に立場が弱い。一般的にも、正義という言葉は口に出すのも恥ずかしく、子ども向けのヒーロー番組の中でしかまじめに使われないような状況である。
 しかし、最近ではすこし事情が変わってきた。政治哲学講義「ハーバード白熱教室」のマイケル・サンデルさんがブームを巻き起こし、正義について考えるのもありではないか、という風潮が出てきたのだ。喜ばしいことである。


近代的世界観とリベラリズム
 実は、近代の民法や憲法は、ある種の正義論に基づいて作られている。フランス革命やアメリカ独立革命の頃は、こういう憲法にしよう、こういう民法にしよう、個人の自由の尊重を基本に、これこそがあるべき法だ、という一定の考え方があった。それはリベラリズムである。
 リベラリズムは、単に個人の自由を尊重するというだけではない。近代的世界観に基づいていることが重要だ。近代という語は単なる時代区分でなく、価値評価として使われる。時代に関係なく、劣っているものは前近代的であり、優れた近代的なものへと取り替えてやらなければならない。近代的世界観を身につけた知識人は、遅れた一般大衆を、半ば強引にでも導き、啓蒙してあげなければならない。こうした近代主義的な発想を、リベラリズムは持っているのだ。
 近代的世界観は、ヨーロッパ中世の目的論的世界観のアンチテーゼとして登場したものである。目的論的世界観とは、世界の中にあるものはどれも何らかの目的を持って存在している、という考え方である。近代的世界観はこれを否定する。世界の中にあるものは全て、何の目的もなくただ存在しているだけだ、と考えるのだ。
 目的論的世界観のもとでは、人の行為が正しいか否かは、それが目的にかなっているかどうかをチェックすることで客観的に判定することができる。世界には人が作る前から、自然の中に客観的な規範(古典的自然法)が埋め込まれているのだ。他方、近代的世界観は、人が作る前に決まりがあることを認めない。行動を規制する規範が何もないところ(規範的真空状態)で、精神としての自己が、自分の身体を手始めに、物質世界の全てを支配しようとするのだ。だが、これでは、「万人の万人に対する闘争」が生じてしまう。
 では、近代的世界観のもとで社会秩序はいかにすれば可能か。合理的に理性で考えれば、各人が自分の縄張りをもらうことで諦めた方が確実だ。その方が、全員が納得するだろう。全ての人に平等に、支配領域を配分する。その領域内では何をやってもかまわない。そうなると、境界線として唯一客観的に法が生まれてくる。これが理性法(近代的自然法)である。
 リベラリズムの正義論は、この理性法こそが近代的世界観に合致した、あるべき法だ、と考える。つまり、全ての個人に平等(同じだけの縄張り)に自由(中では何をやっても良い)を割り当てる境界線だけが、近代的な規範であり、他に規範はありえない。もしあったなら、それは、近代的世界観の正しさに気づかない遅れた前近代的な人間が、迷信にとらわれて信じている前近代的な規範である。そんな規範は間違っており、なくしてあげないといけないのだ。
 だが、本当にリベラリズムは正しいのか。法とは境界線である「べき」なのか。


反たばこ運動と嫌煙権訴訟
 たばこが嫌いだから、たばこなんかこの世からなくなってしまえ、と考える人々がいる。これは、ピーマン嫌いの子どもが、ピーマンなんか消えてなくなれ、と考えるのと一緒で、それ自体はただのわがままにすぎない。だが、ピーマンをこの世から消し去ることを目指す反ピーマン運動が存在しないのに対し、たばこの場合は、たばこを本当になくしてしまうことを目的として、法律家が関与し、組織的に活動する反たばこ運動が存在している。
 反たばこ運動が第一の戦略として用いたのは、「嫌煙権訴訟」である。この訴訟では、喫煙者がいなくなった世界が理想だ、という本音はおくびにも出されなかった。あくまで、支配領域(縄張り)の境界線として法を理解するリベラリズムの枠内で主張が展開されたのだ。
 人は自分の縄張りの中であれば何をしてもかまわないが、他人の縄張りの中に踏み込むようなことをしてはならない。非喫煙者は、喫煙者が自分の縄張りでたばこを楽しむ自由(喫煙権)を否定しないから、同様に、喫煙者も非喫煙者が自分の縄張りに煙を入れたくない自由(嫌煙権)を認めなければならない。煙が空気中を移動してしまう以上、境界線を守るために物理的な手段(分煙化)が講じられなければならない。このように主張されたのである。
 この時、愛煙家は、「一斉禁煙はファシズムだ」、「個人の自由を奪ってよいのか」と過剰に反応してしまった。この反応は、本質的には正しかったが、結果的に愛煙家の立場を悪くすることになった。あくまで表向きは、自由を重視するリベラリズムの枠内で、分煙化を主張しているだけの相手を、自由を否定するリベラリズムの敵だと批判しても、リベラリズムの支持者には理解してもらえない。他方、喫煙は個人の自己決定だと反論したことは、愛煙家がリベラリズムの立場を受け入れていることを意味し、自由主義的なリベラリズムに疑問を抱いている人々の支持も得られなかったのだ。


反たばこ運動とたばこ病訴訟
 愛煙家が喫煙を個人の自己決定として位置づけたことは、後に大きな禍根を残すことでもあった。反たばこ運動の第二の戦略である「たばこ病訴訟」のきっかけを与えてしまったのだ。
 自己決定であれば尊重されるというのは、リベラリズムの考え方である。ただし、自分で決めたというだけで、全てが自動的に自己決定になるわけではない。一定の条件を満たしてはじめて、自己決定として認められ、尊重されるのである。一つは、判断能力が成熟していること。さらに、十分な情報にもとづいて判断していること。その上で、他人の縄張りを侵さず、危害を加えないこと。これらの条件が満たされない行為を、リベラリズムは自己決定として認めないのである。
 喫煙はこれらの条件を満たすのだろうか。判断能力の面では、喫煙の低年齢化が進んでいることが引っかかる。十分な情報が与えられているかといえば、たばこのパッケージには危険性云々と書いてあるが、これで十分なのかは難しい。また、他人に危害を与えないという部分も、受動喫煙の害がクローズアップされてくると難しくなってくる。
 ここで反たばこ運動の第二の戦略が発動される。喫煙は自己決定の条件を満たさない。だから、リベラリズムのもとで、個人の自由として保護されることはない。むしろ、喫煙者は子どもの頃にたばこ会社に騙されて以来、病気になっても吸い続けている哀れな被害者である。加害者であるたばこ会社からたっぷり賠償金をとって救済してあげよう。その結果、たばこ会社が巨額の賠償金負担に耐えられず倒産するかもしれない。そうすれば、たばこをこの世からなくすという目的を達成できる。かくして、たばこ病訴訟が提起されることになったのだ。


すべての喫煙が自己決定たりえないのか
 喫煙は自己決定である、というのはいささか怪しいとしても、すべての喫煙が自己決定とはおよそ言えないケースばかりだというわけではない。大人になってから吸い始める人もいれば、たばこに関する情報を調べた上で吸っている人もいる、禁煙に成功する人がいる以上、依存症でどうにもならないというわけではない。近年では分煙化も進んでおり、一人でこっそり吸うなら受動喫煙も存在しない。反たばこ運動は、極端なケースを取り上げて、それを喫煙者全体のイメージ低下に利用しているのだ。
 それでは、喫煙が自己決定だと言えそうなケースを示すことで、反たばこ運動に対抗できるのだろうか。これはなかなか難しい。というのも、どれほど自己決定であるように思えるケースに対しても、常にそれを否定する要素を、挙げようと思えば挙げることができるからだ。
 これは、反たばこ運動が絶対に勝利を収めるということではない。そもそも100%完璧な自己決定というものを考えると、それがこの世には決して存在しないことがわかる。十分な情報というが、完璧な情報は神でなければ知り得ない。判断能力の条件も、完璧な判断は神でなければなしえないのだ。
 したがって、自己決定を基準に考えるリベラリズムにこだわるのは不毛である。喫煙が自己決定でなくても、それだけで直ちに、喫煙が否定されると考える必要はないのだ。


喫煙は特殊なのか
 そもそも喫煙は特殊なのか。これはまっとうな疑問である。反たばこ運動は喫煙の追放に特化した運動であるが、正義論は喫煙のことだけを考えているわけにはいかない。党派的な利害関心は正義の反対である。等しきものは等しく。つまり、同じ論理が成り立つものは同じに扱わなければならないのだ。
 たばこは嫌いだから禁止するが、酒は好きだからいいよ、というのはダブルスタンダードだ。これは、ただのわがままであって、正義の名には値しない。ある理由にもとづき喫煙を禁止しようとするのなら、同じ理由が成り立つ全てのものも同様に禁止しようとしなければならない。それが正義の要請である。
 たとえば、自動車について考えてみる。歩道と車道の間に壁があって分煙化されているというところはどれくらいあるだろうか。自動車の排気ガスはいくらでも吸わされるのに、自動車を禁止すべきだという意見は聞かれない。受動喫煙が問題なら、排気ガスという危害を与える自動車の使用は禁止されなければならないのではないか。
 また、スポーツを考えてみる。子どもの頃好きになったスポーツを生涯続ける人は多いが、スポーツで身体を壊すということもある。依存性が問題なのであれば、判断能力のない子どもの頃からスポーツをやらせるのは禁止しなければならないのではないのか。こうした問題に思いをはせることなく、喫煙だけを規制しようとするのは正義に反することなのだ。


リベラリズムのどこに問題があるのか
 私は京都のラーメンが大好きだ。だが、京都ラーメンを好きになると決めたことはない。ずっと博多のとんこつラーメンしかおいしく感じられなかったのに、いつの間にか京都のラーメンをおいしく感じる舌になっていたのだ。
 自分で好きなものを選ぶのが自己決定だが、自分の好みを自分で選ぶことは難しい。人の好みは、生まれた家庭や育った地域など、自分ではコントロールできない様々な要因に規定されている。リベラリズムは、自己決定の源を個人に求めるが、個人の中に究極の源は存在しないのだ。
 自己決定であるためには、外部の圧力を受けず自分で決めることが必要である。しかし、世間は圧力でいっぱいだ。圧力とまで言えなくても、自分の選択を左右する外的な要素は無数にある。
 そもそも、人間は有限の空間に生きているのだから、誰とも全く関わらない生活はありえない。世界はつながっている。密閉空間でなければ、誰かが吐いた空気を別の誰かが吸うことを避けることはできない。密閉空間に閉じこもり、自分の吐いた空気だけを吸って生き続けるなんて無理である。満員電車の車内のように、人は縄張りも何もないところで生きている、というのがこの世の現実なのである。
 この世の秩序を構成しているのは、リベラリズムの正義論ではない。境界線を引くことで何もないところに秩序が生まれるのではなく、最初から秩序があるところに人が生まれてくるのだ。当然、その秩序は白紙から合理的に設計されたものではない。このような秩序には近代的世界観のもとで認められる客観性はないが、そもそも近代的世界観を信じることそれ自体に根拠はあるのだろうか。リベラリズムが現実には機能しない以上、リベラリズムを秩序の構成原理とする近代的世界観も机上の空論に過ぎないのである。


文化と幸福と正義論
 リベラリズムに代わる正義論は、リベラリズムが見ようとしなかった文化の次元に着目する。人は文化的な存在であり、人のアイデンティティには文化が非常に大きく関わっている。自分のアイデンティティを構成している文化が尊敬されない時、ましてその文化が消滅する時、人は非常に不幸な人生を強いられることになるのだ。
 アイデンティティとは、自分の外側にあって、いつでも自由に選択し、好きなように取り替えることができる種類のものではない。自分を自分にしているものがアイデンティティであり、それを文化が構成している以上、自分と文化との関係を、人は自分でコントロールできないのだ。
 人はそれぞれ文化を背負って生きている。正義論が文化を無視することは、人が身体を持って生きていることを無視することと同様、およそあってはならないことである。一国の国民が全て同じ文化の一員であるとは限らないから、一国の中でも文化ごとに違った対応をすべきである。こうした考え方を多文化主義と言う。
 世界のほとんどの国で、バイクの運転時はヘルメット着用が義務づけられているが、宗教上の理由でターバンを巻かなければならないシーク教徒は、その文化を理由として、ヘルメットを被らないことが認められている。また、一部の少数民族に、幻覚作用をもたらす飲料を使って宗教儀式を行うといった伝統がある場合、刑法で他の一般国民はダメだが、彼らだけは許されるというケースもある。このように文化を考慮して法や政治のあるべき姿を考えるのが、多文化主義の正義論である。
 喫煙は文化であり、喫煙者はその文化の一員であることを自分のアイデンティティとしている。多文化主義の観点からすれば、健康文化に一方的に肩入れし、喫煙文化を潰して喫煙者に不幸な生涯を強いることは、法や政治が果たすべき役割に反しているのだ。
 文化を重視する立場に対しては、どんな文化も等しく尊重するのか、という疑問が投げかけられるかもしれない。世界の文化の中には、夫が亡くなると残された妻が焼身自殺する儀式(ヒンドゥー教のサティー)や、FGM(アフリカの女性器切除)など、様々なものが存在する。しかし、これらを近代主義的な観点から、「普遍的人権」に反する前近代的な野蛮な文化として、上から批判し攻撃しようとする態度は間違っている。「普遍的人権」の思想も一つの文化である。遅れた文化と進んだ文化があって、後者が前者を滅ぼすことは一方的に正しい、とする進歩主義的な発想にも根拠はないのだ。
 だからといって、どんな文化も等しく尊重すべきだということにはならない。文化を尊重するのは幸福のためである。文化それ自体のために文化を守るのではなく、文化をアイデンティティにしている人々を不幸にしないために、文化を尊重するのだ。したがって、人に不幸を強いてまで文化を守るのは本末転倒である。もちろん、この判断が大変難しいことは言うまでもない。
 正義論の出番がここにある。全ての文化に寛容な文化相対主義ではなく、特定の文化を押しつける文化帝国主義でもなく、人間の経験から導き出された知恵として、さすがにこれはよくないんじゃないか、という判断はあるだろう。そうした判断をもとに、様々な文化と人間とのかかわり合いはどうあるべきなのか、を深く考えていくのだ。
 反たばこ運動の目標が達成されると、たばこを吸うことに幸福を感じ、喫煙者としてのアイデンティティに満足しているたくさんの人々が、一斉に不幸に追いやられてしまう。この犠牲を払ってまでたばこ文化を滅ぼさなければならない積極的な理由はあるだろうか。むしろ逆に、そうした人々を不幸にしないよう、たばこ文化を守ることが求められているのではないか。そう私は思うのである。
(平成23年12月4日)