嗜好品文化研究会


平成23年度第3回研究会の記録:嗜む人々の中のルール

「日本の酒礼(式献)について」 神崎 宣武

ゲスト講師●神崎 宣武/かんざき のりたけ●1944年岡山県生まれ。民俗学者。武蔵野美術大学在学中より宮本常一に師事。以降、国内外の民俗調査・研究に従事。陶磁器の技術伝播の調査と民具の収集に始まり、食文化に展開。旅への関心は、フィールドワークの体験と旅先で出会った行商の人たちとのつきあいから。現在、旅の文化研究所所長。郷里の吉備高原では神主も務める。著書に、『「旬」の日本文化』、『江戸に学ぶ「おとな」の粋』、『しきたりの日本文化』(いずれも角川学芸出版)、『三三九度 盃事の民俗誌』(岩波書店)、他多数。



庶民の飲酒機会は祭りにあった
 日本は飲酒に対して鷹揚な国である。最近は成人病の予防と交通規制のため、史上初めてというぐらいの酒の規制が厳しく行われているが、世界全体からみると日本でそれはほとんど問題にならなかった。
 なぜ日本は酒に鷹揚だったか。国立療養所久里浜病院(現・国立病院機構久里浜アルコール症センター)が出した1990年代の初めごろのデータだったと思うが、飲酒がどの程度まで許容されるかを国別に比較したものがあった。正確な記憶ではないが、人前に出る時や車を運転する時でも少しの飲酒は構わないとする日本人が70%弱あった。夜歩きは酩酊でも構わないという人も50%近くあった。それほど飲酒に関して寛容な民族である、という報告であった。  なぜ寛容なのか。
 柳田国男も言っているが、年間に飲酒できる日にちが限られていたのだ。「祭りの酒は底みえるまで」という言葉がある。つまり、酒樽の底が見えるまでいっときに飲んでしまえという飲み方で、そこでは酩酊も泥酔もやむなしという認識なのだ。
 日常、のんべんだらりと飲み出すのは、都市部においては江戸時代であり、地方の宴会においては明治時代から。日本人全体としての日常飲酒は高度経済成長期からと考えてよいだろう。酒造量と飲酒量が非常に増えるのは明治30年代、つまり、日清戦争から日露戦争にかけてである。日本の場合は、戦争が飲酒量と飲酒人口を拡大させ、飲酒機会を作ってきたと言えるだろう。出兵、凱旋、戦勝祝い。これはそれまでにないことだった。戦争と祭りを同列にしてはいけないが、そういう機会が圧倒的に増えたということだ。
 昨今では酒蔵も経営危機になり、どんどん減って2,000蔵ぐらいになったが、そのうち明治30年代頃を創業期としている酒蔵は1,500ほどに上るだろう(灘は、江戸へ下り酒を出したという都市向けの酒造地なので特殊な例)。本州のうち、江戸や上方、一部城下などの都市を除く庶民からみれば、酒の始まりは祭りにあるといえる。祭りでいっときに大量に飲むのである。


サケは、サ(斎)+ケ(饌)
 「お神酒あがらぬ神はなし」という言葉がある。酒が神道と密接に関わっていることを物語るものだ。また、「何がなくとも酒がさきさき」ということわざには、来客があれば料理より酒の一杯を出せという教えがうかがえる。「さき」というのは「ささ(酒のこと)」と同じ、平安時代の酒を表す女房言葉である。野郎言葉が「さけ」。それにかこつけて「何がなくとも酒がさきさき」と言ってもてなしを形式化してきたのである。
 後に入ってきたビールやウィスキーなども含めて一般には酒というが、狭義にはやはり日本酒、米の酒を指す。私は、サとケに分けて考える。サは単なる接頭語だと言語学者は言うが、例えば、「さにわ」は、本殿と拝殿の間の幣殿(祭儀を行い、幣帛(へいはく)を奉る社殿)の脇にある坪庭のような、庭の中でも特別な庭である。また、「さおとめ」は、田植に際し田の神を祀り一番田を植える特定の女性を指していた。それからも分かるように、「さ」が付くと、単なる「にわ」ではない、単なる「おとめ」ではない、単なる「け」ではない、ということになる。ここに接頭語「さ」の共通性がみえる。「さ」は、古い文献では「斎」を書く。
 日常的な「け」ではないとはどういうことか。「さけ」の「け」は、「気」とも「饌」とも書く。「饌」は食べ物(飲み物だけではない)のこと、つまり「御饌(みけ)」は特別な食べ物であり、祭りのごちそうのことだ。
 「気」は日常のことである。ケ(気)が疲れてくるとケガレ(気枯)になる。ケガレ=「死」ではない。ケガレをそのまま放っておけば、病に至る、死に至る、という意味だ。医療や薬品が開発されていない時代でも、人間は未然に防ぐ方法を考えた。ハレ(晴れ)の行事を行うわけである。一つの要素が、全員で休養する。もう一つの要素が、全員で食事をする。この二つをある期間みんなで共有すると元に戻る。この循環を考えれば、「御饌」は滋養豊富で、気分の変換が促されるごちそう、ということになる。固形物であっても液体であってもよいが、ここで「酒」が特上の御饌として登場する。
 言葉で難しく解説しなくても、各地の神社のしつらえをみれば、ケとハレが分かる。例えば、注連縄(しめなわ)は、左前で綯うのが一般的だが、それは右利きの人を前提に、利き腕でないほうでハレ用の縄を綯うからだ。利き腕を使うのは日常。従って、ハレの日のためには逆手を使う。
 そう考えると、日常の食べ物の数倍も手をかけている酒が、ハレに符合することも分かるだろう。麦飯や粟飯、大根飯を食べていた時代に、米100%のご飯というのは「めし」ではない、つまり御のつく「御飯」であり、ハレの食べ物なのだ。そして、白いご飯というハレの要素になお加えて(米を糯(もち)米(ごめ)に替え)、蒸す、搗(つ)くという手間をかける餅は、さらに上位にある。もうお分かりだと思うが、それ以上に管理の面倒な酒は、最上級のハレに相応しいということになるのだ。
 どこの神事でも、酒が必ず最上段の中心(正中)に供えられている。両脇がご飯や餅である(最近は小豆のおこわを供えたりする)。米100%の手間をかけた料理品が神へのもてなしなのである。従って、「お神酒あがらぬ神はなし」というのは、「酒」が米100%の手をかけた神饌の象徴であることを示しているのだ。


祭りの終わりは酒尽きたとき
 文化の変容については、都市と農村を分けて捉えなければならないと私は考えている。都市の流行先取りと文化変容の混乱はどの時代にもある。都市を基準に捉えるのと、農村を基準に捉えるのでは100年ぐらいのギャップがある。文化的な祖型がすべて農山漁村に残っているわけではないが、都市ほど変化はしていないと考える。
 さて、江戸時代の各地の祭りの記録、祭りの諸役と作業に関する書き物をみると、かなりのところで酒づくりが一番最初に登場する。酒をつくるのに10日間ほどはかかるからだ。酒ができあがった頃、祭りのハイライトがくるという日取りは、たぶん東南アジアなどの先住民族も同じだろう。
 私は台湾のアミ族の集落を40年ほどみてきた。電気とオートバイが入った24〜5年前にこの社会は大きく変わる。それまでは山の中に裸足で入り、自給自足的な祭りをしていた。面白いのは、正確なプログラムが作れないことで、例えば、陸稲の豊作を祝う収穫前期の祭りは2日間の場合もあるが、3日間の場合もあるのだ。酒を全部飲んでしまうと祭りは終わるのだが、あの家にはまだ酒が残っているはずだということになると終われない。酒を中心として祭りが動いているというのは、東南アジアの多神教社会で古くから米を持っている地域に共通することではないか。世界の他の地域とは大きく違う飲酒文化を形成しているように思う。
 私のフィールドは日本列島、特に本州部の村落社会である。北海道や沖縄、そして都市は他の要素が複雑に絡み合うからだ。


式献
 しかし、祭りとはいえ、いくらなんでも最初から乱暴に酒を飲んで始まるわけではない。一方に、酒は人間がつくるものではなく、神がつくるという考え方がある。『古事記』や『万葉集』を紐解くと、ほとんどが神の酒として登場する。作り手も神なのである。例えば、『万葉集』には「この神酒は わが神酒ならず 倭なす大物主の醸みし神酒 幾久幾久」とある。この神酒は私がつくったものではない。大和の国を造られた大物主の命が醸された神酒だ。幾世までも久しく栄えよ、という意味だ。酒が神に供えるものであると同時に、酒造りが非常に神聖なものであったことを表している。
 従って、酒はある作法をもって戴く、という儀式ができてくる。その代表が「式献」である。『軍用記』や軍鑑の類に出てくる武家の礼法がかなり古い事例だが、記録では平安の都での藤原の右大臣就任の大饗まで遡ることができる。その時の式献は、十九献、廿一献もあったという。
 今に繋がる酒礼は式三献だが、これは中世武家社会から出た作法である。では一献というのはどういうものか。一献は、盃一杯の酒に、肴一品。我々は「しゅこうを凝らす」というのを「趣向」と考えるが、「酒肴」であることも忘れてはならない。
 盃に必ず一つの肴がつく。白木の膳の上に、土器(かわらけ)の盃と肴を載せるのが一献である。二献めは、組合せを替えて出す。三献めも、新たな盃に新たな肴。これを取り交わして飲む。今は神前で飲むことを「直会(なおらい)」と呼んだりするが、正式にはこの三献の三つめの膳のことを言う。「なおりあい」であり、ハレの儀式が三献めで終わるという意味だ。
 『軍用記』には「出陣の時に、一に打蚫、二に勝栗、三に昆布、如是祝ふなり」とあるが、「勝つ」「打つ」は語呂合わせであり、乾き物を肴にする表徴とみればよい。この肴を見立てるのが「献立」である。今「献立」といえば料理のレシピのことだが、酒礼の一献をつくって配膳するのが「献を立てる」ということだった。するめ、昆布、梅干しでもよいわけだ。
 直会の食事を台所でつくるようになってからは、神社の本殿から幣殿を通って拝殿に下げてきてみんなに分配するという形はほとんどみられない。しかし、神飯と神酒だけを下ろして、銘々に配するということは行われている。神飯をまず箸で神職か巫女が配り、銘々が手塩(てしょう)で受け、これをいただく。盃で神酒を受ける。変形した形ではあるが、これを直会とするところはまだ結構たくさんある。
 武家の作法・伊勢流礼法を伝える『貞丈雑記』(江戸中期)という書物がある。その頃すでに「献」があいまいに使われていたため、ここには元を正す意識が非常に強く出ている。「一こん二こんと云ふを、一盃二盃の事と心得たる人あり、あやまり也、何にても吸物肴などを出だして、盃を出すは一こん也」 。つまり、肴がつかない盃だけの献立は、正式な酒礼ではないという。「古祝儀には必ず式三獻、又は三ツ盃出づる也」ともあるが、十九献や廿一献のように数を重ねると、メンバーが多ければ一日がかりになるため、三献をもって正礼とするというものである。これは以後の文献にも出てくる。


祝言での式献
 式献がかろうじて現在も伝わっているのは、神前結婚式での三三九度である。神前結婚式は、明治33年、大正天皇の成婚の時に日比谷神宮(東京における伊勢神宮の遙拝殿として明治期に日比谷に創建。関東大震災後、現在地へ移ってからは飯田橋大神宮、戦後東京大神宮と改称)で行われたのが始まりだから、それほど古いものではない。
 しかし、もともと祝言に盃事はつきものであった。分かりやすいのは、明治時代のグラフィック雑誌『風俗画報』である。明治30年以降のそれには、日清、日露戦争の軍事バブルによりかなり都市化した市民生活の様子が表れる。が、それ以前の祝言の風景には、それぞれの家の奥座敷に折りたたみ屏風を置き、空間を仕切って、夫婦になる二人と媒酌人が一人、もしくは立会いでもう一人が並ぶという、当時のしきたりがよく表れている。
 媒酌の作法は地方によってさまざまである。関東では姑がする場合が多く、関西では親戚筋の長老がする場合が多い。しかし、その時でも姑が立ち会う。盃事の見届けは姑がするのが一般的だったのだ。これは日本文化で大変重要な点である。家にまつわる重要な行事の伝統は、姑、つまり家つきの主婦、家刀自(いえとじ)がそれを見届けて語り継ぐという役割がある。私は宮本常一先生に師事したのだが、先生からは、田舎で聞き取りをする時は、よそで二、三人から聞いておいて、それを確かめる仕上げを家つきの年寄り女に聞けとよく言われた。家での行事という行事に立ち会っているから、確かによく知っている。神社やお寺の行事は男に出てもらうが、家の行事は必ず家刀自が仕切って見届けるのだ。
 さて祝言に戻ると、媒酌人をするか見届け人をするかはいろいろだが、必ず姑は立ち会う。屏風で仕切っただけだが、閉鎖的で、他人が覗くことが許されない儀式である。だからこそ、それを近隣社会に認知してもらうために披露宴があるのだ。現在のように、親族が並んでの祝言となる過渡期に、男の子と女の子が酌をするという形も出てくるが、もともと祝言は、限られた人たちの秘儀であった。媒酌人は、黙って酌をするのではなく、式献を進行させる役だ。一の盃は自分の意思をしかと確認して、三口で飲み干す。二の盃は、相手の意思を確認して三口で飲み干す。三の盃は、神明に誓って三口で飲み干す。それを言葉に出して進行する。キリスト教結婚式も神に誓って、とやっているが、日本でも同じなのだ。その後、確かに式献の儀、相整いましておめでとうございます、と収める。
 ところにより流儀により違うが、私の神社に伝わっている盃事は、当屋(頭屋)が替わる時に三三九度をする。西日本で当屋制度を持っている神社ではよく行われていると思う。話せるのは媒酌人だけで、列席者は必ず無言だ。私のところは、神主である私が進行をし、媒酌人は別に立てている。式献は秘儀であり、限られた人たちの約束事なのである。


式献を伝える特殊な例
 しかし、神前結婚式の三三九度では、盃の意味を神主も言わないし、媒酌人は巫女に任せきりだから、式献を今に伝えているとは言い難いところがある。この作法を今一番きちんと伝えているのは任侠の世界だ。襲名盃、兄弟盃、仲直り盃。仕切る媒酌人は年寄りではない。媒酌人は、組の幹部になる前の、上昇中の人がなる。年寄りは見届け人だ。
 襲名盃では、媒酌人がまず「本日媒酌の栄を取らせていただく○○です。若輩者ゆえ言葉に間違いがあれば、お許し下さい」と挨拶する。祝い言葉というのがいかに大事かを物語っている。親分には「譲るお覚悟を固めて、三口でお飲み下さい。」と言い、新しく襲名する親分には「引き受ける覚悟を固めて、三口でお飲み下さい」。三の盃は神明に誓って。その盃を銘々が預かる。三つ重ねの盃は大きさが違うのが出ているが、商品化される中でこの形になっていったのであり、本来は素焼きの場合も磁器の場合も同じ大きさ、形である。その盃を当人同士が一枚ずつ預かり、三枚めの盃を媒酌人が「私が預かります」と預かる。持ち帰って神棚に供えるか、包んでタンスの奥にしまう。いわば契約書である。日本は契約社会が発達しなかったというが、この盃事は非常に神聖で侵しがたいものなのだ。親の血をひく兄弟よりも、というわけだ。
 今は直会の食事は、あらかじめ台所で用意する。だから、どんどん豪華になるが、基本的には酒と肴である。肴は、今いう酒の「あて」ではなくて、ご飯の場合も餅の場合もある(というより、供えた順番からすると、餅かご飯である)。祭りでは、鏡餅は氏子の数(もしくは氏子が多ければ総代の数)に切り分ける。持ち帰って、汁に入れたり焼いたりして、家族がおかげをいただくということになる。
 伊勢神宮でお神楽を上げると、神楽殿で奉納神楽(宮中御神楽の系統)とご祈祷を受けた後、盃事が体験できる。盃は幡枝焼(京都)と同じ系統で轆轤(ろくろ)以前の古い土器杯である(盃は持ち帰る)。盃は一つであるが、肴は三品(するめと昆布、鰹節)が付けられる。


礼講と無礼講
 これまでみてきたように、文化の祖型は途絶えてはいないが、点線状態でたどりにくくなっている。そういうものをいかにしっかりとみて、語り部から聴いて、文献と合わせるかが大事になってくる。
 式献は、言い換えれば礼講だ。式献は三を代表として、式三献となる。初献、二献。直会献である。これを総じて礼講という。それを済ませるのが直会、つまり会が直る。儀礼が直って、無礼講となるわけだ。
 どの時代にも省略や誤解はあるのだろうが、今我々がそれをどういうかたちで伝え残すかということが命題だろう。任侠の世界だけに委ねているわけにはいかない。そうなると、後の学者たちが、非常にマイノリティな、特殊な儀礼だと言い出しかねないからだ。むしろ、そういうところに吹き溜まって残っているのだということを言わなければいけない。
 日本では祭りの酒に、礼講の酒と無礼講の酒があるが、なぜこれほど顕著に分かれるのか。韓国の酒礼について調べたことがある。韓国では、祭りの際に酒礼の形はほとんど残っていないが、数少ない例として、シャーマン(巫者)の世襲、免許皆伝を山上で山神に報告するという儀式がある。敷物の上には確かに酒が三種ある。濁酒(マッコリ。ウルチ米を蒸して、小麦麹とあわせた簡単な酒)、醴酒(れいしゅ。ドンドン酒。餅米で作った、まったりとした酒)、清酒(濁酒を搾ったもの)。この三つが、韓国の古い銅製の酒器で供えられる。式三献というのは酒が三種なのか、と私は非常に驚いた。
 日本では文献上、酒が違うとは書かれていない。せいぜい神前での白酒(しろき)、黒酒(くろき)があるぐらいだから、伝播の途中で漏れたのかもしれない。逆に、韓国では肴が三種ではない。ブタの頭などいろいろな料理をいっぱい並べた中に、酒だけが三種なのだ。式献はその三種の酒だけで行うのである。
 韓国と日本では若干の違いがあるものの、かなり制度化されたものが伝わっている。他の国では、ここまで制度化していない。東南アジアの先住民族で私が知るのは台湾のアミ族とインドシナ半島のリー族である。祭りが酒づくりから始まるという共通点があり、酒の飲み終わりが祭りの終わりというのもたどれるのだが、礼講と無礼講の境が判然としない。韓国と日本はそのあたりがしっかり様式化されているのだ。日本の場合はさらに、礼講が厳格に様式化されたからこそ、無礼講の崩れも社会的に容認されてきた、とみる。
 日本と韓国が似ているのは、もしかすると稲作の北限だからかもしれない。どういうルートにせよ、南方系の栽培種であるイネは、朝鮮半島と日本が北限だ。稲作を定着させるために相応の苦労があったであろう。先祖の労苦の跡を行事に再現するということは、祖霊信仰の強さとも関係する。それはまた、稲作定住をより促す信仰でもあっただろう。まだまだ私の想像の域を出ないが、そのあたりまで広げて考える必要があるだろう。が、最近の若い研究者はこの分野にほとんど関心がないのが残念だ。任侠の世界から民俗学者が育つのを待つしかないか、と思う。
(平成24年1月14日)