嗜好品文化研究会


平成24年度第2回研究会

「嗜好品としてのケータイ ──心理学的一考察」 金光 義弘

ゲスト講師●金光 義弘/かねみつ よしひろ●川崎医療福祉大学臨床心理学科長・教授。昭和45年京都大学博士課程中退、同大学霊長類研究所共同研究員、京都大学教養部助手、東京都神経科学総合研究所研究員、滋賀医科大学助教授、岡山大学文学部助教授を経て、平成3年川崎医療福祉大学臨床心理学科教授に就任、現在に至る。文学博士。専門は認知・行動心理学、交通心理学、健康心理学。近年は、認知・行動心理学の視点から飲酒運転や運転中の携帯電話の危険、高齢運転者の視野狭窄の問題などの研究を行っている。著書に「霊長類動物の認知的行動に関する研究」(風間書房)、「事故の心理・安全の心理」(企業開発センター)、共著に「新・心の探検隊」(アカデミア出版)など。



嗜好品としてのケータイ ──心理学的切り口
 私の専門は心理学だ。若い頃は霊長類動物(サル)を用いて大脳生理学と心理学の狭間のような研究をし、次いで実験系の学習心理学、認知心理学をやり、最近では学生への教育の傍らストレス研究や交通心理学の研究をしている。
 ケータイというツールは現在、日本人の文化や心の持ち方をかなりの勢いで変えつつあると思う。私自身はケータイを持たない。我が大学の教員約400人余りのうち、ケータイを持っていない5人の中の1人で、変人扱いされている。でもケータイを持たなくても普通に生きられる。他の方々にいろいろ迷惑をかけているだろうが、ケータイがこれだけ普及する前は普通に社会生活が営めた。従って、ケータイの不携帯が他人に迷惑をかけるなどということは、さほど大きな問題ではないと思っている。
 さて、嗜好品は様々な側面を持っている。ある種の価値判断を伴っており、ストレス緩和や気分転換の効果を持っている。しかしその反面、使いようによっては問題を引き起こす危険があるのではないか。ケータイの場合がそうである、と私は考えている。


若者のケータイ事情
 今回、大学生がどのくらいケータイに依存しているかを調査してみた。アンケート項目を作成するに当たって、あらかじめ使用実態と意識をフリーアンサーで聞いてみた。
 調査対象は、医療福祉を目指す、岡山県にある私立大学の2年生(平均年齢20歳)80人だから、サンプルは偏っている。しかし一方で、先日、京都教育大学生協で、焼プリンを4,000個誤発注してしまい、近隣の複数の大学生協が分割して引き受けて対処に当たっているという話が、学生のツィッターによって広がり、各大学とも見事に完売となったことは記憶に新しい。実はこの伝播のラインに今回の対象者が2人も入っていたというから、偏りのあるサンプルの中にさえ、近畿圏のソーシャル・ネットワーキング・システム(SNS)に組み込まれている者がいると見なして間違いはないだろう。
 調査の結果、ケータイを触っている時間は平均5時間、長い学生は7─8時間になることがわかった。ケータイに遣う費用は月平均7,500円、電話登録件数は平均100件あまり、メールアドレス登録件数はそれより若干多い。使い始めたのはほとんどが高校入学時だった。
 「ケータイを持っていてよかったことは何か」の質問で(3件まで複数回答可)一番多いのは「すぐ連絡がつくこと」(79件)であったが、2番目に多いのは「情報収集・情報交換」(43件)、「友だちづくり・ネットワーク」(30件)、「暇つぶし・退屈しのぎ」(27件)が挙げられており、この利点が逆に問題となりうる。最近、大学の大人数講義での私語がとても少なくなっている。後ろの方の席の学生はケータイを静かに触っている可能性がある。そして、時計、カメラなどの多くの機能を使いこなしているという事実も分かってきた。面白かったのは「告白」という回答。告げたくないことでも、ケータイならば誰にでも簡単に告げられる、とのことだ。
 「ケータイ無しでどのくらい耐えられるか」という質問で、1ヵ月耐えられると答えたのは80人中10人(12.5%)いた。しかし、1日たりとも耐えられないという者が24人(30%)。1日ならば我慢できるが1週間以上はだめという者が34人(42.5%)もいた。ケータイというツールは若者たちの生活に想像以上に浸透しているという実態が見えてきた。


ケータイ使用の学習性
 ケータイ使用は学習性、習慣性とも関係している。学習とは、経験の頻度を積むにつれて自分の行動や反応がだんだんある方向性をもって変容していくことを指す。
 学習のメカニズムは、快感覚を伴う刺激に何度か反復接近していくうちに、抑えがたい欲求をますます高じさせ、それを希求する行動を過剰に累積する、というものである。
 快感覚の刺激自身が対象となる以外にもう一つ、快感を生起させる行動が対象となる場合がある。ギャンブルやショッピングなどである。希求行動が過剰になった場合に嗜癖(アディクション)──やみつきになってしまう。
 ある刺激に何度か接近するうちに、この刺激が快感の信号であると学習していくことを、レスポンデント学習という。犬を例にとると、毎日エサを運んでくる人の足音が、それを口にする前に快感覚の信号刺激となり唾液を出すようになる(例:パブロフの唾液条件付け)。
 古典的な嫌悪条件付けの例で言えば、白ネズミと機嫌よく遊んでいる赤ちゃんの耳元で大きな音を鳴らしてびっくりさせると、この子は白ネズミを見ただけで恐怖反応を起こすようになる。刺激が恐怖反応を起こす連合作用を持つようになり、今まで何でもなかった白ネズミが怖い対象になる。ひいては、白ネズミだけでなく、白いウサギも白いヒゲのおじいさんも怖くなってしまう。白いもの、あるいは毛のようなふさふさしたものまでが恐怖の対象となる。こういう刺激汎化メカニズムをレスポンデント学習は持っている。
 学習にはもう一つ、オペラント行動というものがある。例えば、ボックスの中のテコを押すとエサがコロンと出てくる。ネズミがはじめてボックスに入れられた時にはテコの意味はわからないが、うろうろしているうちに偶然身体がテコに触れてスイッチが入り、エサが出てくる。テコを押すとエサが出る、という随伴性の原理を学習することにより、テコ押し行動が習得される(例:スキナーのオペラント条件付け)。このように行動の結果に対して与えられる報酬や罰といった刺激により、自らの反応を変容させる自発的な行動の習得を、オペラント学習という。
 ケータイの使用もこれと同様、ちょっと触った時の面白さが強化刺激となり、その経験が快感となって、だんだんとやみつきになるのだろう。ところで、逆の経験(反応に伴う嫌悪結果)を積むことにより、反応がだんだん消去されていくのも学習の一つである。依存症傾向の低減に使われる(断酒会などでの療法)。ケータイ使用も経験により獲得されるわけだから、それが適切な使い方であればよいが、それが依存症、嗜癖になってしまった場合には学習過程を逆に辿って、消滅に持っていくことが可能であると思う。


ストレス対処とケータイ
 ケータイはストレスとどう関係するのだろうか。
 現在の心理学分野では、リチャード・ラザルスがストレッサーの認知的評価と対処行動に関するストレス理論を提唱して以来、これが定着している。水泳の飛び込み競技の飛び板に例えると、飛び乗るという刺激が加わると板がひずむ。この刺激がストレッサーである。現代の生活はさまざまなストレッサーに晒され、板がひずんだ状態だから、なんとかひずみを元に戻そうと意識的無意識的に対処行動をとる。これをストレスコーピングという。
 あらゆる刺激や生活上の出来事はストレッサーになりうる。妻からのお小言、隣人との軋轢(あつれき)、上司の叱責など対人的なもの、ラッシュアワーも苛立ちの種である。そんなストレッサーに晒されると、それらが自分にとって脅威的なものなのか、影響があるか、影響はどの程度かを測ろうとする(一次的評価)。そして、それらはコントロールできるものかどうか(コントロール可能性)、なんとかなると思えるかどうか、といった二次的な評価を行う。一次的評価と二次的評価を繰り返して、ストレスコーピングを行う。これがうまくいった時、少々のストレッサーがあっても、それはむしろその人の健康に繋がるが、うまくいかなかった場合や不適切なコーピングをしてしまった場合は、深刻なストレス反応を生起させてしまう。
 コーピングには様々な種類がある(図表2)。ケータイは、ストレスフル状態や不安な時に気分転換、緩和、癒しといったコーピングのツールとして使われている可能性が高い。
 しかし、それへの耽溺が習慣化して、様々な支障を来すようになると、それはもはや依存症である。自分自身ではコントロール不能なひずんだ精神状態であり、なかなか元には戻れない。中止が精神的離脱症状として強い不快感、イライラ感を生じさせる可能性がある。

             図表1                     図表2
図1
     出典:田中ウルヴェ京・奈良雅弘『ストレスに負けない技術』(2005, 日本実業出版社)より一部改編

ケータイへの依存傾向
 今回、依存傾向を知る項目を学生の自由記述アンケートから取り出すことができた(2年生80人)。信頼性、妥当性の検証はしていないが、尺度は次図のとおりである。なお、点数幅は最低が17点、最高が55点になる。
 結果は、平均が35点で、点数の分布はきれいな正規分布になった。36点以上の者が非常に多い。自由記述の回答と併せて判断したのだが、17〜25点あたりは「ケータイやむなく使用群」、ケータイはなくてもよいが、なかったら不便なので通信機能だけをやむなく使っている、といったケースである。26〜35点の人たちの自由記述からは、ケータイを時計やカメラの代わりにしたり、場合によってはウェブにアクセスしたり、限られた範囲で上手に使っている様子がうかがえる。使用頻度はかなり高いが、必要に応じて使っているからケータイがなくてもさほど困らない、という部類に入る。
 一番多かった36〜45点のあたりは「ケータイ依存予備群」といってよく、SNSにのめり込んでいる傾向も強い。46点以上は、あらゆるケータイ機能を使いこなし、大学の勉強などそっちのけでケータイなしでは生きていけない者だが、今回は80人中1人だった。
 なお、1学年の差が関係するかどうかを見るため1年生についても調べてみたが、ほぼ同様の傾向だった。高校1年の頃からケータイを使い出したというから、大体3年間のうちに既に使い方を習得しているという実態がわかった。

図2

図2


運転中のケータイ使用
 私は交通心理学というものにも関わっているので、ケータイと交通安全の関係にも関心を持っている。2004年11月1日の道路交通法改正で、運転中のケータイ使用に対して罰則が新設された。手に持っているだけで反則金が普通車の場合6,000円(通話違反の反則金は、普通車で9,000円)である。それまでも、禁止はされていたものの罰則規定がなく、事故を起こした場合に3カ月以下の懲役か、50,000円以下の罰金が適用されるのみだったから、これはかなり大きな改正といえる。ただし、ハンズフリーキットなどを利用した通話は、一般的には規制の対象とならない。私から見るとたいへん不備な改正である。
 警察庁は「ケータイを探す手、持つ手が事故を呼ぶ」というキャッチフレーズのキャンペーンを張っていたが、問題は「手」ではない。会話や画像に気をとられながら別のことをする、という「ながら行為」が危険なのである。
 かつて私は、「運転中に携帯電話で通話することの危険性」について実験をしたことがある。当時の警察庁のデータによると、ケータイ使用による事故のうち最も多いのは追突であり、原因はハンドルの切り損ねが29%、ブレーキが間に合わずというのが57%であった。学生を使って動体認知の測定実験をしてみた。コンピュータ画面上でランダムに出没と変化を繰り返すターゲットを監視させ、誤反応率と反応時間をみる。ケータイをかけながらというケースと、ハンズフリーで会話しながらというケースの差を見たところ、通常は見落とし率が0.1%だったのに対して、ケータイとハンズフリーで会話しながらの場合では6%あった。大した数字ではないように見えるかもしれないが、100個の危険なシグナル(横断者や赤信号など)のうち6個を見落とすわけだから、たいへんな危険率である。しかもケータイとハンズフリーにほとんど差異が見られなかった。
 また、反応の遅れに関する実験 ──危険シグナルを発見して0.3秒以内に反応できない回数はどれだけあるかを測定すると、通常は3%だったが、ケータイでは11%、ハンズフリーでは13%となった。従って、ハンズフリーも危険度においてはケータイでの通話と同じであり、とっさの判断遅れによる追突に繋がる可能性がある。だから罰則の対象とすべきだと警告している。


個人の責任と判断による選択
 ケータイの不所持によってどんな不都合があるのだろうか。ちょっとした不便に過ぎないのではないか。決定的不便さではない。逆に、ケータイの存在は、常に誰かと繋がっていることの不自由さや、直接対話・会話の断絶、母性の欠落、いじめの道具、社会的マナーの欠落、自動車・自転車運転中の危険増加、といった不都合を引き起こす。持たないことによって決定的な不利益を被ることはない。むしろ持たなければ、対人関係の煩わしさも繋がることによる束縛もない。ケータイによる時間の浪費を強いられたくない。情報産業の餌食になるのはごめんである。だから私はケータイを持たないし、学生たちのケータイ依存を非常に憂慮している。依存度が高いにもかかわらずそのことを自覚していない、ということこそ問題である。私がケータイを持たない理由をいろいろ挙げたが、これはケータイを持つ人に対して、上手に使って欲しいという願いを込めたメッセージでもある。
 嗜好品は生活に豊かさや幸福感をもたらすものでものであるが、嗜好品で享受する快楽にはコントローラーがいる。それは自分自身である。個人の責任と判断が必要であり、その舵取りは豊かな良識と適切な判断力を備えた個人に委ねられている。


[質疑応答&総合討論]


問題の所在はどこにあるか
白幡 藤本先生はかねてより、アンチストレッサー、気晴らし、気散じできるものを嗜好品と見るならば、ケータイも嗜好品の一つではないか、と指摘しておられる。ケータイは、まさかこれほどまでに社会に浸透するとは想像していなかった。他者との繋がりを求めるというけれど、ケータイはそれほど魔力のあるものなのか。今日の金光先生のお話で改めて、そう感じた。それならば、ケータイは嗜好品の中でどのような位置を占めるのだろうか。
栗田 先生が調査された依存傾向は、男女別やパーソナリティ特性との関連性はあるのだろうか。女性のほうが嗜癖傾向が高いとか...。
金光 関連は恐らくあるだろうが、今回は、そこまでは調査していない。
藤本 金光先生と同じ気持ちを、私も30歳代の頃は痛感したが、今やケータイは100%のインフラになってしまったため、持たないという選択肢はほとんどありえない。次の世代ではケータイをくわえて生まれてくるぐらいになる。「ながらの弊害」についても、ケータイをしながら別のことをするというのが基本的なライフスタイルになっており、これはせっかちな日本人にも合っていて、やめるということができない。やめさせることも難しい。むしろ今は、子どもに教育するより、車を適応させたほうが早い(障害物を検知し衝突を回避する車が開発された)、という時代になってきているのかもしれない。もちろん、モラルの問題は避けて通れないのだが。
疋田 藤本先生の昔の研究にポケベル研究があるが、もともとポケベルは、営業マンがどこにいても呼び出せる(ページング機能)よう、会社が持たせたもので、営業マンはそれによって拘束感を持っていた。今のケータイにもその要素が受け継がれているのだろうか。
藤本 ポケベルは、営業マン管理の必要性から始まったが、女子高生がうまく使いこなして、時代が大きく動いた。しかし、それはポケベルのせいで時代が変わったのではなく、孤独を愛する人より、人と繋がりたい人のほうがすでに多かったから、文明の利器が意味を転換させられたわけだ。
 学生にも、ケータイによるなんとなくの不定愁訴はある。「その子とケータイするのはやめてみたら」と言いたくなるぐらいに悩んでいる学生もいるが、チャンネルを切るという選択肢は持っていない。もちろん拘束感を抱く学生はほとんどない。
疋田 通勤途中に、ケータイをしながら自転車に乗る中高生に会うが、たいへん危ない。嗜好品だから危ない、のではなく、ケータイだから危ない。嗜好品の「嗜む」という語の中には「限度を知る」の意味も含まれているはずだ。もはやケータイは嗜好品でない。限度を超えた中毒になっている状況だと私は思う。
栗田 電話をかけながら、あるいはメールを打ちながら歩く、自転車に乗るというのは危険の問題だが、我々が嫌悪感を抱くのは、例えばこういう席で呼び出し音が鳴ることだ。いわば一座建立している中で、別の世界に行く者がいることが嫌われるのではないか。それさえ守られれば、まだケータイがこの世界に受け入れられる余地はあるような気がする。
志水 通話や、せいぜいメールまでの通信機能しか持たなかった時代は、ケータイもアンチストレスではなかっただろう。ところが、ケータイでできる範囲がゲームはもとより、インターネットからツィッター、SNSにまで広がると、対人コミュニケーションのヘタな人間はネットにアクセスすることでなんとか社会と繋がろうとしているのではないか。だから、金光先生の言われる問題は、通信機能が問題なのではなく、付属のアプリケーションの問題だろう。ケータイにそういう機能がない時は、パソコンでウエブページを次々に渡り歩いて閲覧するネットサーフィンから抜け出せなくなってしまう子どもがいる、というのが社会問題になったが、今はアプリが豊富すぎて抜け出せないのではないか。

文明の利器のもたらす快楽とその弊害
栗田 新しい文明の利器が登場すると、必ずある種の反応がある。例えば、炊飯器が登場すると、三度の飯も強し柔らかしで、上手く炊くことが主婦の誇りなのにそれを放棄するのか。洗濯機が登場すると、下着の汚れをみて家族の健康がわかるのに、それを放棄するのか。ワープロが出てきたら、気持ちを込めない文章を書いてどうするのかと。それでもなお、文明の利器が持つ快楽主義は、我々に迫ってくる。文化人類学などというものを長くやっていると、文明の利器を持たない人たちの文明への絶対的な憧れの気持ちを見せつけられる。
金光 自分のやり方以外のものは必要ない、ということが身についた人であれば、たとえ快楽の道具が眼前にあっても、テクノフォビアというか、不適応感が先に立って飛びつきはしないだろう。しかし、現代社会は、快楽をくすぐるものが身近なところからひたひたと迫ってくる感じで、実にこわい。
栗田 個人の欲望、欲求は抑制できるのか。集団の欲望、欲求は抑制できるのか。宗教学者の問いのようになるが、今日はそんな問いかけをされたような気がする。
金光 欲望、欲求は抑制できないと思う。
藤本 ケータイを禁止できるかできないかノもさることながら、我が大学では科目の中に哲学、宗教学がない。繋がっていない状態というのがどういうことか、わからなくなっているから、繋がりが是か非かもわからない。ケータイへの依存を反省して繋がりのない状態を尊重するとか、孤独が素晴らしいといった思考回路は全く滅びている。我々はむしろケータイを使って哲学をしなければならないぐらいだ。
志水 人間は知恵を持ち、効率性や生産性を求め、文明の利器を求め、社会をどんどん発達させてきた。利器を求めてストレスを解消させてきた。この場合のストレス解消と、嗜好品のストレス解消という目的は同じものなのか違うものなのか。それを考えると、ストレスを解消させるものを一概に嗜好品とは言えないかもしれない、とも思えてきた。

ケータイでストレスコーピング
白幡 嗜好品の中でも酒、タバコのように、思想的抵抗を受けているものがある。ケータイも、これだけ普及しているのにやはり嫌だという人がいる。しかし、基本的にあるべきところに自然に存在している嗜好品と、マナーに頼る嗜好品はどこか違うような気もする。ケータイはまだかなりの人をイライラさせており、市民権を獲得しているようには私には思えない。落ち着いてくると、ケータイの終着点もどこかまともなところに到達すると思う。
藤本 10年前のARISE(国際嗜好品会議)でも線引きについては議論になった。僕が嗜好品としてのケータイの話をすると、他の研究者は、酒、タバコなどのオールド嗜好品と、ケータイ、ゲームなどのメディア嗜好品の間は、線を引きたいと言う。どこが違うのかと議論しても、いやどこか違う、不幸と幸せぐらい違う、ということでその時は明確な答えは出なかった。僕も提案をしておいておかしな話だが、なんとなくその気持ちはわかる。
岩室 すぐに連絡がとれるという基本的機能だけでなく、先ほどの依存傾向分布で36点以上の予備軍ぐらいの人が、ストレスコーピングなどのプラスアルファの報酬を求めているように思える。ケータイが嗜好品化しているのはこの部分ではないか。
 文明の利器のうち、洗濯機などで依存の問題が発生しないのは、プラスアルファの価値、つまり快感や楽しみに繋がっていかないからではないか。文明の利器が意味を転換した、という言い方を先ほど藤本先生がされたが、アプリによって付加価値がどんどん付いてくると楽しい。報酬系が活性化されるようなことがいっぱいあるから意味を持ってくるし、それがいきすぎると依存というような問題行動も出てくる。そういうメカニズムではないだろうか。
 ケータイは主にどんなことのために使われているのだろう。複数の目的があるかもしれないが、ストレスコーピングのために使っているのか、情報をとるという有用性のために使っているのかを知りたい。ストレスコーピングにケータイがどれほど役に立っているかという調査はされたのか。
金光 ケータイ利用調査をしたのはこの機会が初めてだったので、そこまではしていない。今後、さらに学生対象調査に切り込んでいくとすれば、どういう用途で使っているか、ストレスコーピングとしてはどういう使い方をしているのかを、詳しく調査すると面白いだろう。
岩室 依存傾向の特に高い、たった一人の人と、その他の予備軍の人たちに対して、上手く質問すれば、ボーダーラインがどういうことを指すのかが見えてくるのではないか。
金光 「ケータイを持たない人に対して言いたいことがあれば、それは何か」と自由記述で回答を求めると、ほとんどは「ぜひ持ってくださいよ」とか「こんな便利なものを持たないでいいんですか」という回答が多かった。一方、「やむなく使用群」「上手に使いこなし群」の中には「特に持たなくてもよいと思う」という答えが半数ほどいる。このグループ中には、ケータイを上手く利用しているというよりも、煩わしい、とか、かえってストレスを感じる、という人が含まれるのだろう。
 実際に、どんな利点があるか、という問いをすると、ケータイで悩みを友だちに打ち明けたことによって救われた、とか、面と向かっては言えない自分の失敗をメールでは親に伝えることができた、といった例が挙がった。ケータイでストレスコーピングをやっているのであれば、予備軍に含まれる子でもそれほどの問題はないと思う。
栗田 我々はまさしく、善を知るために悪を知らなければならない。文学者が悪を書くことで、反転された善を我々は知ることができる。これはよくないから禁止、という決めつけは、豊かな人生を放棄させることになるかもしれない。

若者にとっての嗜好品、その変容
藤本 女子大生人類学的に言えば、今の女子大生には、学習機会と報酬のおかげで、バイトを嫌がる子はほとんどいない。みんなよく働く。その代わり、タバコ、酒どころかコーヒーさえもまったく飲まない。先輩や友だちからそれを誘われることもなく、接点がないままに社会人となる。青春の飲み物の中にそれらはない。コーヒーを飲まない、缶コーヒーも飲まない。お茶か水かジュースだ。ところが、アルバイトとケータイだけは100%の普及率だ。
白幡 その世代にとって、かつての嗜好品が全滅とはすごいことだ。そこまで事態は進んでいるのか。
岩室 儀礼の時の酒も飲まないのか。
藤本 家でもやらないのだろう。
志水 なぜ以前の嗜好品がなくなったのかというのは面白い研究テーマになりそうだ。
金光 先ほど言われたように、コーヒー、タバコ、酒に接することは、癒しのためには非常にいいコーピングになっていたと思うが、今の若者にはそれがなくなってきており、それに代わるものがケータイ、という可能性は充分にある。人と繋がるということで精神的な快感を充分得てしまえば、別に美味しいものを一緒に食べなくても飲まなくてもいいわけだ。
 ただし、度が過ぎて、快感でなくなっていることに気づかなくなることこそが問題だ。使い方が問題なのだ。こうなってしまった社会は受け入れるしかないが、これからの変化を予測してどのように対応していくべきかを提言していかなければならないと私自身は思っている。有為なコミュニケーションツールが登場したという側面もあるが、本当に人と心を通わせるという姿を壊してしまえば元も子もない。今後も、ケータイのゆく先を考え続けていきたいと思っている。
(平成24年12月8日)