嗜好品文化研究会


平成25年度第1回研究会

「食の移転 ──近現代イギリスにおける社会的嗜好品としての食文化」
小野塚 知二

ゲスト講師●小野塚知二/おのづか ともじ●東京大学大学院経済学研究科教授。神奈川県生まれ。東京大学大学院経済学研究科第2種博士課程単位取得退学。博士(経済学)。主な研究テーマは近現代イギリス社会経済史、イギリス労使関係・労務管理史のほか、食文化史、音楽社会史、兵器産業・武器移転史。
著書に『自由と公共性 ─介入的自由主義とその思想的起点』(日本経済評論社2009年)、『クラフト的規制の起源 ─19世紀イギリス機械産業』(有斐閣2001年)。共著に『軍拡と武器移転の世界史 ─兵器はなぜ容易に広まったのか』(日本経済評論社2012年)、『大塚久雄『共同体の基礎理論』を読み直す』日本経済評論社2007年、『西洋経済史学』(東京大学出版会2001年)などがある。



嗜好という概念 ──生物学的な嗜好と環境条件に対応した嗜好
 嗜好とは人間に固有の現象と考えがちだが、生物学や農学では、生物にはそれぞれの種に固有の「嗜好」のあることが知られている。たとえば、蚕と桑、コアラとユーカリの組み合わせなどは顕著な例である。むろん、ヒトやクロダイのように雑食性の高い種もあるが、それらの種も、好んで選択して摂取するもの、通常は忌避するもの、摂取しても消化・吸収できないものなどがある。こうした生物の種に固有の食物選択=嗜好には、接触刺激物質と接触阻害物質や、消化分解酵素の有無が作用している。この嗜好は遺伝子によって決定されている。
 こうした生物的・先天的な嗜好とは別に、人には地理的・環境的な条件に対応した「嗜好」もある。ある社会が成立している環境において、調達しやすい食品と調達しにくい食品、さらに事実上調達不可能な食品は厳然と存在する。通常、こうしたことがらは、地理的ないし環境的な制約による食材の決定と議論されがちであるが、調達不可能な食品以外は、無差別に生産・消費されているわけではない。どの社会も物的再生産の効率性や可能性の観点から、その環境で生育可能なもののうちいくつかを選択して、それらを集中的に生産・採集しているのである。そこにも単なる外的・客観的な制約だけでなく、主体的な選好・忌避が作用していることがわかる。
 概ね食文化圏は、嗜好=選好・忌避の上に成立してきた食材、加工技術、食品の安全衛生上の問題などの、一連の組み合わせとして形成される。たとえば、獣脂食文化圏と植物油脂食文化圏がそれに当たる。台湾は獣脂食文化圏にはなりがたく、ユーラシア大陸の北辺の広大な領域は植物油脂文化圏にはなりがたい。またカビや菌を用いた食品加工(発酵)のしやすい高温多湿な環境か否かで、旨味を活用する食文化圏とそうでない食文化圏に分化する。  近世の日本は、史料上はほぼ完璧に植物油脂食文化圏であった。近世末期以降は、植物油脂食文化圏の基盤の上に獣脂が取り込まれ、獣脂に依存する食が文化的「離島」のように存在する。
 しかし、現在でも日本では、植物油脂が基本的な油脂食材である。家庭で用いる食材として、乳脂肪以外の獣脂は定着していない。乳脂肪の摂取量も、獣脂食文化圏と比べると格段に少ない。食文化圏の根強さの表れである。


個人的嗜好と社会的嗜好
 通常、「嗜好品」と呼ばれているものの多くには、何らかの薬理効果や向精神作用があり、それは直接的には摂取した当人にのみ働く。ミネラル・ウォーターを嗜好品らしきものにしているのは薬理効果ではないが、直接的には個人的な好みによってそれは「嗜好品」となっている。このように、通常、嗜好品の語で呼ばれているものは、個人のレベルで論じうる嗜好を表している。甲は緑茶が好きだが、乙はコーヒーが好き、さらに、コーヒーの中でも特定の銘柄や品種、飲み方を好むというように。
 個人的な嗜好とはいっても、むろん、時代や社会による差や偏りがある。たとえば、近世・近代の日本人は緑茶を好み、19世紀後半~20世紀前半のイギリス人は紅茶を選好した。しかし、近世・近代の日本にも、緑茶より水、白湯、麦茶、紅茶、コーヒー等を好み、緑茶を忌避する者がいたことも事実である。通常、嗜好品とされるものには、個人的な選好と忌避が強く作用している。
 個人的な選好・忌避と社会的な要因との間には、いかなる関係が成立しているのだろうか。個人的な嗜好とはいえ、完全に個人の選択に委ねられていることはまれで、多くは社会的な習慣や制度によって支持・排除されて成立している。たとえば、東南アジア・太平洋・東アジアのいくつかの地域では、ビンロウ・キンマを噛んで赤い唾液を吐き散らすことは容認されているが、日本では社会的に排除されている。19世紀のイギリスでは相当貧しい階層の者であっても紅茶(ないし紅茶まがいの飲料)を嗜むことは容認・支持されていた。社会的に排除されたものを嗜好するにはそれなりの社会的・心理的な費用を要するが、社会的に容認・支持されたものを嗜好するか否かは個人に委ねられる。これが個人的嗜好である。
 これに対して、個人の選好・忌避があまり作用せずに、社会的な選好と忌避によって成立している飲食の対象物もある。たとえば、イタリア料理とは、近代・現代のイタリアおよび移民イタリア人社会で選好されている食品群と、それを特定の仕方で加工・調理・給仕したものである。そこには薬理学的な習慣性や物質嗜癖はほとんど作用していない。オリーブ油やトマトに薬理学的な習慣性は認められない。しかもトマトは南米原産で、イタリア料理に定着してからわずか200年に過ぎない。それでも、イタリア社会で好まれる一群の食品と料理は厳然としてある。それだけでなく、イタリアないし移民イタリア人社会において、イタリア料理を拒否しようとすれば相当の社会的・心理的、また経済的なコストを覚悟しなければならない。
 このように、個人が好んでいるか否かに関わりなく、その社会ではそれを摂取することが選好され、それを拒否することが非常に困難な、つまり社会的に制度化された食のあり方を観察することができる。ある社会ではA料理がB料理より選好されており、その社会の成員甲にとっても乙にとってもBを選好することは期待・奨励されていない。むろん甲が一人で、あるいは少数の同好の者たちと食べるものには、制度の規制力はそれほど強く発揮されないだろうが、多くの者が集う場での食のあり方は制度によって強く規定されている。それが社会的な嗜好である。
 個人的な嗜好、たとえば、喫煙には社会的な意味は付与されていないし、喫煙は社会的な意味を表現しない。ある女性が喫煙することは、タバコに関する社会的な選択・忌避の中で何らかの意味をもつが、それは社会全体にとっての意味ではなく、喫煙する当該女性にとっての意味、その女性が身に纏おうとする記号である。これに対して、意味の所有や消費の主体が個人ではなく、社会が主体となるような嗜好を想定できる。これを社会的嗜好という概念として仮設してみよう。
 通常、食文化として論じられていることは、ここでいう社会的嗜好に属することがらであって、個人的な嗜好に属することではない。甲がラーメン好きで、乙がワンタン麺を好むといったことは食文化的な現象とは通常考えられないが、19世紀中葉以降のイギリスで正餐といえば例外なくフランス[風の]料理しかありえず、今日の日本で結婚披露宴といえば和食かフランス料理以外、まず考えられないことは、食文化が社会的な現象であることを物語っている。


社会的表象と密接不可分の社会的嗜好
 このように個人的な嗜好にも社会的な排除・支持が関わり、社会的嗜好もむろん社会の制度として成立している。どちらも共通して、生物的な嗜好と、地理的・環境的な嗜好の上に否応なく成立している。そのうえに、さらに宗教的禁忌のように社会的に支持された選好・忌避や、社会的な慣習も作用しているであろう。しかし、個人的な嗜好には社会的な意味は付与されていないのに対して、社会的な嗜好としての食文化は、食に付与されている社会的意味や食が担っている社会的表象と密接不可分である。それゆえに、「精進落とし」が中華料理、イタリア料理やインド料理となることはありえず、例外なく和食の料理となる。
 日本で儀式の食が和食となるのは一見わかりやすいが、結婚披露宴で、日本に定着している外来料理のうち、なぜフランス料理だけが採用され、他はだめなのか。それは披露宴に適しているか否かの社会的な評価・判断が作用しているからである。そこでは、個人の満足や選択が決定要因ではなく、社会があたかも一個の生き物のように嗜好の、それゆえ意味の付与と消費の主体となっている。


19~20世紀のイギリスに新たに展開した食と食文化の移転
 およそ文化現象は、地理的・人間関係的に狭く閉ざされた環境の中で、自生的かつ純粋培養的に変化・進化・展開することは非常にまれだと私は考えている。他地域・他社会からの移転と他への移転の中で展開するのが常態だろう。
 イギリスの食文化について、私は旧稿で、18世紀後半から19世紀初頭の農業革命によって「村」と「祭り」が消滅し、また季節性の高い在地食材の宝庫である共有地・庭畑地の利用可能性が低下したため、食文化が創造性を失い、意味の希薄化したものしか産み出せなくなった結果、19世紀中葉以降、イギリスは食文化が決定的に衰退し、20世紀末にいたるまでその抜本的な回復が認められない、と主張してきた(「イギリス料理はなぜまずくなったか ──イギリス食文化衰退の社会経済史的研究」佐藤清隆他編『西洋史の新地平 ──エスニシティ・自然・社会運動』刀水書房、2005年、および「イギリス料理はなぜまずいか?」井野瀬久美惠編『イギリス文化史』昭和堂、2010年所収)。だが、同時期のイギリスの食に、何の変化も展開もなかったというわけではない。以下では、伝統的イギリス料理の正餐(dinner)を代替したフランス[風]料理、ティー、フィッシュ・アンド・チップスやベイコン・アンド・エッグズなどの食が、何をいかにイギリスに移転した結果なのか概観してみよう。


フランス料理の移転
 フランス料理は、19世紀中葉、イギリスに移転する。フランスもイギリスも食文化圏としてはヨーロッパ北部の獣脂文化圏に属し、酒や酢などの醸造物もほとんど共有し、植物、鳥獣、海産物、淡水魚などの分布も非常に近い。フランスとイギリスの間に古くから食をめぐる交流はあったが、イギリスの正餐がほぼ完全にフランス料理に席巻されるようになったのは、正餐の献立表、料理書の書名や記載された料理名、有名な料理人などから、1830年代と特定できる。
 それを象徴するできごとは、フランス人料理人のソワイエ(Alexis Benoît Soyer 1809-58)が、1837年、ヴィクトリア女王の即位した年に、ロンドンのリフォーム・クラブの料理長に就任したことである。リフォーム・クラブは、産業革命・農業革命によって新たな勢力として自らを確立しつつあった産業資本家層と彼らを支援するウィッグ系貴族の専用クラブであった(1836年開設)。新しい社会への転換を求める新興勢力とその応援団が、産業革命によって消滅した伝統的イギリス料理に代わって、フランス料理を自分たちの集会所の正餐に採用したのである。
 20代の若さでこの新興クラブの料理長となったソワイエは、クラブの会員達の財力にものをいわせて、当時としては画期的に体系化・近代化された調理場を作らせた。それまでは貴族や富豪の邸宅でも、燃料の節約のため、昼間から火が入るのは大広間の暖炉だけだったから、大きな肉塊を丸々炙るといった時間を要する料理の場合、昼の早い時間に大広間の暖炉の前に肉塊を置いて、ゼンマイ仕掛けでゆっくりと回転させてむらなく焼き上げるのがごく普通の調理法であった。家の中に立ち籠める肉の焦げた匂い、油の香り、煙は晩餐の楽しさを予感させる道具である。ところが、成人男性だけで政治や実業の密議のために集う場所に炙り肉の匂いが漂うのはいかにも都合が悪い。そこでソワイエは、当時開発されたばかりのガス・オヴンを広大な調理場の中央に設置し、排気と廃熱を長い煙管で屋根上に導いた。
 それは、作る者と食べる者を截然と分離する、食の近代化・都市化の試みでもあった。村と祭りの祝宴は、農事暦・教会暦によるものであれ、婚礼などの祝宴であれ、その村に住むすべての者が老若男女を問わず、また身分の差を越えて集い、食材を持ち寄り、料理を作り、それらを食べ、飲み、歌い、踊り明かす機会である。そこで食に込められた意味は、単に食べることの楽しみ(味覚の満足、空腹を癒すこと)だけでなく、集うところから始まる、多分に猥雑なものであった(大人達にとっては婚外恋愛の機会でもあった)。ところが、リフォーム・クラブのように近代化・都市化された正餐は、食の土着性を意図的に隠蔽した。それだけでなく、食を年齢と性別と階級でも分離した。リフォーム・クラブは、成人男性のみ(1981年まで女人禁制だった)、ほぼ同じ階級で、同じ政治的志向を有する者たちばかりが集い、歌も踊りも、男女関係も抜きの食の場となり、密議をこらす場だから酒に酔うこともせず、食の総合的で猥雑な意味は一挙に萎縮して、社交としての正餐に純化したのである。
 食は人々の多様な身体的欲望をいかに満たすかということから独立し、非身体的で、また非共同体的、非土着的になり、「正餐」という記号のみが成立するようになった。その記号的な性格は、むやみにフランス語を多用する料理書の名称や料理名、献立表の書き方などに如実に表れている。外国語を、しかも断片的に頻用するのは、仲間内の符牒や隠語にも共通する性格だが、料理書や献立表は特定の閉じた仲間内のために作成されたものではないから、これはイギリスの食文化が、少なくとも正餐という点では、いわばフランスの文化的な植民地に陥ったような状況であった。ただし、この時代のフランスで、フランス料理という一体的な食文化が確立していたかは疑わしく、むしろイギリスで確立されたフランス風料理が正餐として、世界の旅行業を支配したイギリスの客船やホテルで供されるようになって、国際標準としての「フランス料理」が産み出された可能性があると私は考えている。
 1860年の英仏通商条約の締結は、通常、ヨーロッパ諸国間の自由貿易ネットワークの始まりを告げ、その後のヨーロッパ経済を本格的な成長軌道に乗せたできごととして語られることが多い。しかし、本稿の文脈では、それもフランス料理のイギリスへの移転の結果である。
 この条約のイギリス側の立役者となったコブデン(Richard Cobden, 1804-65)は、農民の生まれだが、若くして農村を出たランカシャの綿業資本家であり、またウィッグ系の改革派の活動家(後に政治家に転身)である。リフォーム・クラブの常連でもあったコブデンが主導した英仏通商条約は、イギリス側から見るなら、フランス産のワイン、コニャックなど酒類、チーズなど乳製品への関税を抜本的に下げ、その替わりにフランスはイギリスの工業製品への関税を下げるという協定であった。したがってこの条約は、意図の点では、イギリスのフランス料理への依存を前提にしており、結果から見るなら、その依存をより一層強める効果を発揮した。フランス料理の移転開始からおよそ一世代を経て、食文化の移転は英仏間の自由貿易体制に帰結したのである。この通商条約の頃までには、フランス料理の正餐という記号は、リフォーム・クラブに限らず、成人男性の集う多くの場面を支配するようになっていた。


イングリッシュ・ティーと胡瓜のサンドイッチ
 イギリスのティーの文化こそはイギリス特有のものと考えられ、日本でも単に、「ティー」といえばイギリスの紅茶文化を指すほどであるが、これも明らかに移転の産物である。
 ティーの重要な構成要素である茶葉と茶器は、17~18世紀にはほぼ中国からの輸入品であり、その安定的な輸入を可能にしたのも産業革命であった。輸入品であったキャラコを国産化して、それをインドに逆輸出し、インドで獲得した銀やアヘンを中国に売る。これにより19世紀中葉以降のイギリスは、貴金属の大量流出を招くことなく、茶葉・茶器を安定的に輸入し続けることができた。
 しかし、中国貿易単独で見るならイギリスは膨大な入超であって、これを解消したのが、アッサムなどの大規模茶園からの安価な茶葉の大量輸入である。その結果、ティーは下層階級まで含む真に国民的な飲料となる。中産階級女性を担い手とするイングリッシュ・ティーも、こうしたインド産の廉価紅茶の普及によって開花した。
 ティーは、青い生野菜や発酵したクリームなど、失われた「田園」から、食材の表象を借用することによって、その内実を豊富化した。19世紀中葉のティーの席の定番の軽食はサンドイッチであるが、なかでも胡瓜のサンドイッチが別格の位置を占めていた。それはいまや失われた青物生野菜の代用物であった。かつて、農民が一年中自分の庭畑でレタスやチシャなどの生野菜を栽培していた頃は生野菜のサラダが可能であったが、農業革命の結果、農村が農民にとって一年を通じて居住する場所でなくなった後は、犬、鶏、豚、山羊などの家畜が糞尿を掛けたかもしれない葉物は生食可能なものではなくなり、また鮮度を保って商品化するのも容易ではなく、イギリスでは生野菜のサラダが消滅した。その代わりにレストランや家庭では、根菜類を塩茹でしたものにクリーム系のドレッシングを施した「茹でサラダ」が登場した。むろん、青物の生食の記憶は容易には消滅しなかったので、それを都市的な環境で、しかも安価に可能にしてくれる食材が胡瓜であった。薄切りにして軽く酢と塩をしてパンに挟む。酢と塩の味付けはまさにサラダの名残である。燻製の鮭やチーズなどを合わせて挟むこともあるが、主役は胡瓜の薄切りであった。ティーの軽食には欠かせないクレソンや発酵クリームを含め、いずれも、記憶の中の「田園」的な場所からの移転物にほかならない。
 フランス料理の正餐が、都市の中産階級を中心にした、成人男性だけの食文化だとするなら、ティーは同様に、都市の中産階級の成人女性の間で定着した食文化である。フランス料理の正餐よりも、高度に様式化されて発展したのは、費用を掛けずに、それを産み出す過程を自ら統御しえたからである。中産階級の家計は夫が掌握している。最低限の金しか預けてもらえない妻が、その状況下で、他の家庭の女性たちとのネットワークを活かし(男性のクラブと同様、密議をこらして)、安価に、かつ長時間の噂話と情報交換を可能にする仕掛けが、ティーの正体である。いつでも利用可能な安価な食材で、数時間もあれば用意できる軽食や茶菓子は、作り方もさることながら、そこに込められた意味の点でも、他の女性たちによって評価されたから、洗練のきわみに到達したのである。
 中産階級の女性たちの都市的な生活にとって、喪失した自己の過去の理想像(健全な生活者のイメージ)からの意味の借用が、ティーを洗練させた重要な要素だったのである。


フィッシュ・アンド・チップスとベイコン・アンド・エッグズ
 フィッシュ・アンド・チップス(以下FC)もベイコン・アンド・エッグズ(以下BE)も、イギリス的な、イギリスでしか生まれなかった食と思われがちだが、ここにも移転が関与している。  FCの「チップス」の食材であるジャガイモは完全な移入食材であって、イギリス人の食事に定着するのは早くとも17世紀中葉のことである。一方「フィッシュ」だが、食材は何でもよいわけでなく、基本的に北海産のタラかオヒョウなどの底生の大型白身魚である。大型底生魚は19世紀末に確立したトロール漁法(漁船の汽船化と底引き網巻上機の動力化)により大量に捕獲できるようになった魚であって、イギリス人にとっては東や北の遠くの海からもたらされた新奇な外来食材であった。  他方BEの食材である豚や鶏卵それ自体は、イギリスでは古くから使われており、多くは国産であったが、19世紀中葉になるとその飼料のほとんどは輸入に頼っていたから、貿易なしに国産可能な食材ではなかった。しかし、それ以上に重要なのは、BEは元来、農民が自家生産した豚と鶏卵の最も安易な食べ方であったという点である。古い時代から商品化された塩漬け燻製の豚肉と、同様に料理や菓子の食材として商品化されていた鶏卵を、ともに加熱しただけで食べるというのは、その生産者である農民だけに許された素朴ではあるが贅沢な食のあり方であった。それが豚と鶏の大量飼育(大量の飼料の安定供給のほかに、畜舎と水道という工業的な設備も必要とする)によって、豚肉や鶏卵の相対価格が格段に低下し、下層階級にも可能になった。この例でも、失われた農民的な食の記憶が、都市の下層階級に移転したことがわかる。  ロースト・ビーフやスモークト・サーモンという半製品が料理であるかのように扱われるイギリス特有の食のあり方も、移転と無関係ではない。ロースト・ビーフには牛の赤身肉を用いるが、一頭の牛を屠れば、赤身肉とほぼ同じ重量の臓物・血液や脂肪も産み出される。臓物と血液はパイ、ブラック・プディングなどに、脂肪は多くは調理用の油脂として用いられてきたのだが、ロースト・ビーフだけが突出して食べられるようになった背景には、中南米や豪州で飼育された牛の赤身肉だけが冷凍船で大量に輸入されるようになったという1880年代の技術進歩が関わっている。スモークト・サーモンも、技術進歩により大西洋産の鮭が大量捕獲されるようになった結果である。いずれも19世紀末以降の現象であって、イギリスの食文化衰退後の食が、いかに広い時空間からの移転によって成立していたのかを示す題材である。


むすびにかえて
 食の移転とは食品の貿易だけを意味するわけではない。むろん、栄養を満たすために、食品が貿易されることは古くからあったが、それは、経済学者たちが想定したように単に栄養の問題にとどまるわけではなかった。経済学は基本的に食を栄養の問題としてしか考察せず、現在のTPP問題への経済学者たちの議論においても、「日本の食文化を守る」という命題は、食糧自給率向上という農水省の政策的掛け声以上に空疎で浮いた議論にしかならない。栄養のために何らかの食材が流入し、それがある社会の食に定着すれば、そこには必ず新たな意味が付与される。人は栄養のみにて生くる者ではないのである。
 さらに、栄養とは無関係に、食の担う意味を獲得するために、何かが移転するということもある。茶、コーヒー、タバコなどの個人的な嗜好品は、個人的に成立する意味の獲得のために、その意味の付与された物財が貿易の対象となった。19世紀中葉以降のイギリスで正餐の座を占めたフランス料理も、まずは意味的な側面において(それゆえ、物よりも先に料理人や料理名が)移転し、それが定着したことの経済的および政策的な帰結として、イギリスはワイン、コニャック、チーズなどをフランスからの輸入に依存するようになる。
 食の移転とは、しかし、こうした空間的移動だけにとどまる現象ではない。「古きよき時代の」食の伝統をほぼ完璧に消失し、それを維持する社会的条件も人的な能力も再生産できなくなった19世紀中葉以降のイギリスでは、理想化された過去からもさまざまな意味が時空を超えて移転し、ティーにとどまらず、さまざまな下層階級的な食の表象を生み出した。
 では、古い食文化とその社会的条件と人的能力が失われても、こうしたさまざまな移転によって、食品と意味とが流入し続けるなら、食は栄養的な面でも意味的な面でも存続しうるのだから、それは近代化・産業化の一つの結果として中立的に受け止めるしかないのであろうか。
 ここで、私の関心は学問から、思想・運動・政策の領域に越境する。まず、19世紀初めのイギリスのように、食文化と社会的条件と人的能力があれほど完璧に消滅し、その後の食文化は、食を楽しむ人々の身体的幸福という意味をそぎ落とされて、極度に縮減された記号化した意味しか持ちえなくなった事例は、20世紀前半までの世界では非常に珍しく、対比事例をほとんど欠くできごとであったと筆者は考えている。それが「イギリスはまずい」という言説が20世紀中葉までに世界的に成立した背景である。
 この過程から引き出せることは二つある。第一は、食文化が、総合的で猥雑で身体的な意味を痩せ細らせ、記号化した意味だけでよいのかという問い、第二は、いったん失われてしまえば容易には回復できないという食文化の特性である。
 現在、日本をはじめ世界の食の状況は、かなり危ない。高度成長期以降の日本は、一方で豊かになり、世界の食材と食文化をますます大量に消費できる食の大国となってきたが、他方では食文化を再生産する環境と主体性は痩せ細るばかりである。100年前にイギリスで起きた現象を横目で睨みながら、日本においては、今後半世紀ほどの間に、失われつつある環境と主体性が完全に消滅する前に、復興する可能性を探らなければならない。しかも、それは、古い家族や共同体への幻想に搦め捕られないように、慎重に進めなければならない。
 わたしは、こうしたことは、非常に重要で喫緊の課題と考えているが、それは成長戦略やTPPや憲法改正問題のように、政治的な誘導で解決しうる問題にはなりにくい。どこで、何をしたらいいのかを考え、実践し続ける協同性をいかに確保するのかを、残りの人生で少しは考えてみたい。
(平成25年6月21日)