嗜好品文化研究会


平成28年度第3回研究会

「オーガニックフードは政治選択なのか、または嗜好品なのか」 速水 健朗

ゲスト講師●速水 健朗/はやみず・けんろう●1973年石川県生まれ。評論家、ライター。コンピュータ誌の編集を経て、2007年に『タイアップの歌謡史』で単著デビュー。メディア論、都市論から音楽、文学、格闘技まで幅広い分野で執筆編集活動を行う。著書に『東京どこに住む? 住所格差と人生格差』(朝日新書、2016年)、『フード左翼とフード右翼 食で分断される日本人』(朝日新書、2013年)、『1995年』(ちくま新書、2013年)、『都市と消費とディズニーの夢 ショッピングモーライゼーションの時代』(角川oneテーマ21、2012年)、『ラーメンと愛国』(講談社現代新書、2011年)など。



思想からくる食の分断
 2011年の東日本大震災による原発事故は、安心安全な衣食住をどう確保するかという問題を多くの市民に突きつけた。そして、子どもに与える食の安全に過敏になる母親と、やたらに正常性バイアスを信じたい父親が対立するなど、特に食に対する考え方の分断が、身近な人間同士のなかで起こった。必ずしも男女差とは言えないが、概ね、女性は非常に食の安全性を気にする。男はわりあい、無頓着である。
 ふつうに考えればこれは、家庭内の夫婦の見解の違いでしかないが、それが家庭を超えたエネルギー政策、安全基準値をめぐる施策への支持不支持の違い、といった政治レベルの話に接続されてしまう。事故以前にはあまり想定することのなかった「政治的見解の相違」が家庭内に持ち込まれるという珍しい事態。特に安全を巡る問題に直結しやすいのは、食の分野だ。食は、日常生活の中でも、もっとも「政治的」なジャンルである。
 もともと私は、食の政治思想史のようなものに興味があった。通俗的なところでは、例えば1970年に陸上自衛隊駐屯地で演説したあと割腹自殺を遂げる三島由紀夫は、その直前に新橋の老舗料理屋(末げん)で鶏鍋を食べていた。また、1936年に庶民の困窮を打開すべく二・二六事件を起こした青年将校たちが、決起する前に打ち合わせをしていたのはフランス料理店(竜土軒)である。フランス革命が起こる直前も同じようなものだ。王侯貴族たちが没落していき、新しい中産階級が出てきて革命が起こるわけだが、お城をクビになった料理人たちが町でレストランを開く。そこを利用するのは新しい中産階級であり、彼らが集まって食事をしているうちに革命家が出てくる。1930年代、サンジェルマン・デ・プレのカフェには哲学者や作家、芸術家が議論や執筆のために集まり、知の発信場所となった。このように、政治思想が食に関連する空間から生まれることが多く、その意味で食と政治は結びついている。


食の好みをマッピングして政治意識をあぶり出せるか
 私が『フード左翼とフード右翼 食で分断される日本人』(朝日新書、2013年)を書いたきっかけも、食と政治の関係に対する興味であり、日本人の食の好みをマッピングして、日本人の食にまつわる政治意識をあぶり出すのが目的だった。今日の政治問題は、昔のように単純に旧来の右、左の二元論で自動的に決められるようなものではないが、まずはシンプルに食というテーマにおける右と左の二分化で、人々の政治意識が捉えられないだろうか。その端緒として、既存のあるいは主流の食品産業に反対する新しい食文化の流れを「フード左翼」という用語で分析してみた。
 これは有機農業や自然食、菜食主義、ビーガン(1)、ローフーディズム(2)といった新しい食の消費者たちのことである。従来の産業化された食への反抗として登場し、さまざまな展開をしている(3)。1960年代の新左翼運動ののち都市からは撤退し、自然共生型の第一次産業で夢を追う、という流れが一部に残っているし、イタリアにおけるスローフード運動と呼応したり、地産地消運動も起こっている。地産地消は、むしろ保守系なのではないかといわれるが、私の中では、既存の食品産業のあり方に対するカウンターなので、「フード左翼」に位置づけている。


社会を変えうるのは消費選択ではないか
 現在世界中で、共同体と結びついた政治は弱体化しており、投票率は低迷し政治自体が嫌われている。政治経験が全くなく、政治家として素人のドナルド・トランプが第45代アメリカ大統領になったことは全世界を驚愕させたが、実は前大統領バラク・オバマも政治の素人だった。もともと弁護士であり、上院議員を1期しか経験せず知名度は全くなかった。かつてのように、政治家から大統領になるのは今日では難しいことなのだ。
 アメリカで、「選挙で投票したところで社会が変わるとは思わない、それより自分の消費行動のほうが社会を変える可能性が高いのではないか、と考える人が多い」というアンケート結果がある(4)。「倫理的消費」で社会問題を解決したいという願いがアメリカ社会の主流となっている、というのだが、要は、フェアトレードに取り組む企業の商品を買うことで「暴力的なグローバリゼーション」に対する批判を行ったり、パタゴニアの商品を買うとその代金の一部が自然環境保護の寄附に回るため、積極的にその活動をしたりすることである。
 どう食べるかは極めて政治的なことであり、人々の消費選択が理想社会をつくり得る、と発言しているのはアリス・ウォータースという女性だ。彼女は40年前から一貫して安心・安全でサステナブルな食を提唱し、「地産地消」のコンセプトを生み出して全米に「美味しい革命」を引き起こし、世界中にオーガニック農業やスローフードを普及させた立役者、料理家であり食育研究家である。政治家ではないが、最も政治的なキーパーソンと目されている。
 また、リーマン・ショック発生以降の不況で金融機関や政界に抗議する“ウオール街を占拠せよ”(Occupy Wall Street)という政治デモが2011年にあった。そのデモに参加したのは無党派層、アナーキスト、社会主義者だけでなく、ニューヨークの富裕層の学生たちや、これまでデモ活動を行ったことのない10代後半〜20代後半の若者だった。そして、彼らを積極的に食料支援したのは全米の有機農業の経営者たちだった。


アメリカにおけるリベラル層と保守層の生活スタイルの違い
 北海道大学の政治学者、渡辺将人氏は今のアメリカの政治状況を分析し、大統領選以前からトランプ氏の勝利を予言していた(5)。彼は、元々アメリカの民主党で投票行動調査の仕事をしていた経験があり、その際に、地域のスターバックスの消費者のデータを利用するというエピソードを披露している。アメリカでは、民主党の支持者層とスターバックスコーヒーの利用者層が、相当のレベルで重なっているのだという。もちろん、スターバックスの利用者が即、民主党支持者というわけではない。しかし、スターバックスの心地いい空間で割高なコーヒーを飲む人たちは、いわゆる「都市リベラル層」に属する。都市リベラル層と民主党支持者は、かなりの部分で重なっている。アメリカではこうした人々を「スターバックス・ピーブル」と揶揄的な意味を込めて呼ぶこともあるようだ。
 一方、地方に住む人たちが好む「文化記号」は缶ビールのクアーズ・ビールである。彼らのことを「クアーズ・ピーブル」と呼ぶ。こちらは渡辺氏の造語である。彼らは主に農村部に住み、チェックのネルシャツを着てジーンズをはき、週末にはアメリカン・フットボールの試合をテレビで観戦しながら、ビールを飲むのを楽しんでいる。コーヒーなんて、マクドナルドへ行けば1ドルで買えるのにもかかわらず、わざわざスターバックスなんてしゃれたところに行くやつらをちょっとあざ笑っている。彼らは、都市リベラル層と対立する政治意識の持ち主で、支持する政党は共和党ということになる。
 アメリカについていえば、民主党が大都市部、共和党が地方農村部といった、住む地域で概ね支持政党の色分けが可能である。支持政党や政治意識がその人のライフスタイルや価値観と深く結びついているといってよい。


都市住民の生活スタイルのさらなる変化
 日本の場合、例えば自民党の支持者と、社民党や共産党などの革新政党の支持者を比較して、食べているものが違うと言えば、そんなわけはないだろとツッコミを受けるに違いない。しかし、日本の状況もアメリカと似通った部分がある。
 冒頭で述べたように、東日本大震災で露わになった、安全性の高い食品を手に入れたいという欲求は嗜好による選択ではないが、彼らのそれ以降の消費行動の中身をみると、まさに宗教的と思えるほど、趣味的な選択として自然食品を選んでいる。アメリカの自然食ブームの影響を受けて、食の安全については震災以前からスポットは当てられていたが、それがより顕著になったと考えられる。
 アメリカでは、都市リベラル層のライフスタイルは、近年さらに変化している。一流大学を出ていながら、投資銀行や広告代理店、官庁などの職を捨て、続々と主婦になる若い世代の女性を取材した書物が、2013年にアメリカのメディアで話題となった(6)。仕事ができる女性ほど、選択的に会社から離脱し、田舎生活を楽しみ、ジャムをつくり、編み物をする。ただこれまでの主婦とは違い、ウエブ、SNSを使い、ワークシェアを利用したり、ブログで発信し起業したり、家事を夫と分担し余裕をもった子育てをしたり、と自分で生き方を選択しているというのだ。新しい主婦像である。
 また、オレゴン州ポートランドでは2011年、生活の風景(食や小さな旅、フラワーコーディネート、コーヒーなど)を美しい写真で綴るライフスタイル雑誌『KINFOLK(キンフォーク)』が生まれている。町の人種構成としては白人が多く、リベラル層が多い。そういう町だからこそ、新しいライフスタイルが定着した。これらの都市富裕層、リベラル層はヒラリーもトランプも支持しない。緑の党に投票したり、サンダースに投票したりする、極左といってもいいほどの政治思想の持ち主だったりする。そんな人たちが都市富裕層の間に増えていて、自然食ブームである。自転車での移動、有機農業による食材が豊富に手に入り、レストランの質も高い。その意味でいえば、多様性のない、均質的な町といえるかもしれない。
 先ほど「スターバックス・ピープル」と「クアーズビール・ピープル」の差異について述べたが、それはスターバックスが都市富裕層に愛されていた10年前の話。ポートランドでは、スターバックスは排斥の対象であった。ポートランドはおもしろい町で、例えばチェーン展開するレストランが町に進出しようとしても住民会議がノーと言えば入れない。実際にスターバックスは入れなかった。この街では、スターバックスはグローバル資本の象徴であり、質の低いコーヒーを提供するブランドということになってしまうのだ。イタリア発のスローフード運動のとき、当地でファストフードのマクドナルドが排斥の対象になったことがあった。ポートランドでは、スターバックスがそれと同じ扱いになったということだ。
 リーマン・ショック後、金融資本主義や行き過ぎた消費社会に疲弊した都市リベラル層の、価値観とライフスタイルの変化について書かれたルポルタージュがある(7)。9.11以降、文化の中心はマンハッタンからブルックリンへ移ったといわれ、そのブルックリンを中心に記述されているのが、世界の都市で同時に起きている、食の革命である。
 都市富裕層の間では何が新しく嗜好されているのだろうか。今の都市リベラル層が好むコーヒーはサードウエーブ・コーヒーである。日本では、厳選された豆を使って一杯一杯を丁寧に抽出する、昔ながらの喫茶店がまだあるが、アメリカではそういうコーヒー店はいったんなくなり、すべてがマクドナルドに代表されるようなナショナルチェーンに転換した。行き過ぎた消費社会への反動として出てきた運動からスターバックスが生まれ、それがセカンドウエーブになり、サードウェーブに繋がっていく。
 都市リベラル層のもう一つの文化の中心は、クラフトビールである。クラフトビールを提供するようなビアパブが増えているのは都市部である。郊外にはあまりない。クラフトビールのスタンドは特徴的なデザインが施されている。チェーン店を想起させるものはなく、タイルや革製品、全体的にウッディな雰囲気で包まれている。シンプルなものとヴィンテージなものを組み合わせたブルックリン・スタイルといわれる店舗である。ピクルスを自分で漬けるような男が、趣味が高じてクラフトビールのビアパブを開業する。
 トランプによって可視化されたアメリカにおける分断とは、消費社会に否定的となり、新たな文化を築きつつある都市層と、こうした急速な価値の変化に取り残された農業や工業従事者の多い州との断絶という側面がある。
 オバマ大統領の8年間は、簡単にいうと多文化主義と多様性の擁護だった。アメリカはもともと多文化主義と多民族混合が前提にあるが、黒人、マイノリティからの大統領が生まれたことで大きく多文化主義、多様性の擁護、ポリティカル・コレクトネスに振れた。その疲れがトランプを選んだという見方がある。私もオバマ大統領の8年間は都市部のライフスタイルの変化に寄与したと思っている。トランプ現象はそれに対する反動である。


日本で、生活スタイルと政治は結びつきにくい
 アメリカでこれだけはっきり分断がみえるのは、都市型政党(民主党)と農村型政党(共和党)といった、それぞれの利益を代表する党が政治を担う立場にあるからだ。
 日本の民主党(現民進党)が、登場してきた当初は都市型政党と自己規定していたようだが、二大政党制を実現していく過程で、その部分は曖昧になってしまった。選挙というものの仕組み上、多くの支持者を集めるためには、はっきりと政治思想や立場、誰の利益であるかを明確にすることは必ずしも得ではない。都市型政党は生まれにくいのだ。
 自由民主党の場合はもう少し微妙である。もともと農協や漁協、医師会や特定郵便局長会、青年会議所といった集票組織に支えられた農村型政党だったが、現在では社会全体が全国的に都市型社会になっていることを背景に(8)、小泉時代に選挙戦略として都市型政党を打ち出した。ただし、やはり元々抱えている地盤を守りたい政治家たちが中心にいるため、再び農村型政党の役割の方が大きくなっている。地方創生を謳わざるを得ないのは、この辺りの部分が大きい。
 日本においては都市型、農村型の区分はもとより、保守・リベラルの区分も曖昧で、「真ん中よりちょっと右」と「真ん中よりちょっと左」の戦いにならざるを得ない。どちらかに寄って得なことがないのであれば、真ん中で勝負しようということが政党間競争のなかで起こってしまう。日本では分断し切れないのが現実である。


住む場所によって消費の違いは歴然とある
 とはいえ、アメリカにおける消費傾向の違いと似たような二分化は、日本でも指摘されている(9)。郊外型の大型ショッピングセンター、ファミレス、紳士服店が全国津々浦々に普及して、全国どこに行っても同じような光景が広がる。郊外型の新しい消費マーケット層が日本の主流になってきているのだ。アメリカで起こっていることの日本版である。
 かつての広告代理店は、都市の消費者層が受容するようなブランドが全国津々浦々にまで及んでいくといった消費モデルを想定したものであるが、最近は、都市と地方では消費傾向がはじめから違うとして、博報堂の原田曜平は今後の経済を担う層の消費分析を行っている(10)。
 コーヒーの消費は、特に階層と結びついている部分がある。例えば、缶コーヒーの主な消費者は、ブルーカラー労働者である。これは広告代理店の消費者調査の結果で明らかになっており、都市部よりも地方で支持されている。
 セブンイレブンは2013年からセブンカフェという名で100円コーヒーを始めて、マーケット的には大成功した。マクドナルドもスターバックスもあるなかで、わざわざなぜセブンイレブンかといえば、店舗の立地として郊外のロードサイド型が多いからである。
 コンビニエンスの商品開発において、都心型消費の商品が成り立ちにくいという話を、マーケティング担当者に取材したことある。消費者からの要望としてオーガニックや健康志向の弁当を望む声は多い。だが、実際に商品として展開してもさほど定着しないケースが多い。それは、例え東京の丸の内などの都市部でOL層を中心に好評だったとしても、全国展開する商品としては、地方、郊外ロードサイドでウケが悪い。結局、商品として残るのは、カロリー高めの揚げ物中心の弁当ということになってしまうようだ。


安藤百福の人類的貢献
 いままで都市リベラル層に多い「フード左翼」の流れを追ってきたが、これは価値観の相違であって、産業化された食が必ずしも「悪」なわけではない。私は『ラーメンと愛国』(講談社現代新書、2011年)で、大量生産の手法を食に応用してチキンラーメンを世に出し、世界から貧困をなくした功労者として日清食品の安藤百福を紹介した。
 それまでの日本のものづくり産業も優秀ではあったが、大量生産の重要さは軽んじられてきたところがある。大量生産の方式が戦後に理解されるようになり、同時にテレビが広告の媒体として普及した当時にヒットした商品がチキンラーメンだった。日清の創業者である安藤百福は、はじめから量産工場にこだわり、さらにマスCMに関心を示していた。その成果がチキンラーメンだった。安藤百福は2007年に亡くなったが、ニューヨーク・タイムズはインスタントラーメンという世界に通用する食品の開発者であること以上に、世界から貧困をなくした功労者であると称えた。
 食の産業化や、農業における化学農法は、人類の発展にとっては重要な観点と私は考えている。


コカ・コーラとチョコレート
 19世紀初頭、皇帝となったナポレオンは何十万人単位で国民軍を率いたのでたいへん強かったのだが、食糧問題には悩まされていた。政府は、長期保存が利く方法を発明した者に賞金を約束するなど、民間からアイデアを募集する。塩漬けや酢漬け、アルコール漬け、燻製といった伝統的な食品保存方法に革命を起こすべくグリンピース、サヤインゲン、牛乳などをガラス瓶に入れて密封し、長時間煮沸する殺菌消毒が発見された。このあと缶詰の素材に適したブリキと、容易に中身を取り出せる缶切りが発明されていく。戦時の必要性から食が開発されるという話は非常に多い。
 戦争と食、とりわけ嗜好品の関連で真っ先に思い出すのはコカ・コーラである。第二次世界大戦が始まったとき、コカ・コーラ社は、創業から50年が経過しアメリカ飲料業界のトップで、海外進出も積極的に進めていたが、やや頭打ち状態だった(そのときライバルとして急速に台頭していたのがペプシコーラ)。コカ・コーラ社は、開戦直後に「全ての兵士に対して5セントの瓶入りコカ・コーラを買えるようにする」という声明を発する。砂糖はコーラにとって必需品だが、重要な戦略物資であったから戦争が始まればその流通は政府によって厳しく制限されてしまう。それを避けるために、コカ・コーラを生産するにはコーラが兵士たちの士気向上に必要なのだという主張を行った。
 当初政府はコカ・コーラを前線へ輸送していたが、費用がかさむことから1942年3月には現地で生産する方法に転換した。前線の後方には政府出資による工場が建設され、そこにコカ・コーラ社のエンジニアが派遣され生産にあたった。戦後、アメリカ政府は各地の工場をコカ・コーラに譲渡し、コカ・コーラは労せずして世界進出を果たすことになった。戦後のアメリカ文化輸出に際し、コカ・コーラは大成功を収めた。
 一方、戦後の日本で子どもたちが進駐軍のジープを取り巻き、兵士に「ギブ・ミー・チョコレート」とねだったという話は有名だが、このチョコレートも単なるおやつのチョコレートではなかった。
 1930年代の戦闘機は墜落率が高かったため、敵地に不時着したり、パラシュートで着陸したとき用に、何日分かの保存食を持っていなければならない。軍はその保存食の開発を、米国チョコレートメーカー最大手のハーシーズ(Hershey's)に依頼する。軍に協力を求められ、ポケットサイズの高エネルギー非常食として熱にも溶けず保存が利く、米軍標準配給品の一つとしてチョコレートの改良版を、軍との共同開発で作った。最初のものは糖分も控え目で相当まずかったらしく、あまりにも兵士たちに不評だったため、戦争中に改良され、戦争末期には市販チョコレートとほぼ遜色ない保存食開発に成功した。ハーシーズ社史にも日本にチョコレートが普及したきっかけになったとは書かれていないが、我々が知っているギブ・ミー・チョコレートの裏に、ハーシーズの保存食開発のストーリーが隠れているのが面白い。
 戦争が生み出すものはいろいろある。初期のコンピュータENIACは弾道計算のため軍事目的で開発された(米陸軍が資金提供した)ものであるし、現在世界を席巻しているインターネットも、国防用コンピュータネットワーク構築を目的に開発されたアーパネット(ARPANET)が起源である。軍事技術のスピンオフは枚挙に暇がないが、嗜好品の発達も、ハーシーズ社やコカ・コーラ社などのメーカーが寄与し、戦争を機にその技術開発が一挙に進んだ。


生活スタイルや嗜好の分断から政治思想の違いが顕在化
 これまで述べてきたことを政治学というのはおこがましいが、軽い意味での政治思想とはいえるだろう。アメリカではクラフトビールやサードウエーブ・コーヒーといったものが都市リベラル層と結びついている。日本においても一定の都市リベラル層が出てきていて、アメリカほど極端ではないにせよ、自然食が受容されるようになってきている。その自然食は、信仰に近いくらいに嗜好され、現在においてはむしろ贅沢品となっている。
 ただし、食に関して右だ左だという区別を用いることに対して、不快感を覚える人も多いというのが『フード左翼とフード右翼』という本を刊行したことで受けた反響の代表的なものだった。日本人は自分が明確に保守か革新かといった区別の対象にされたくない。これは、言霊信仰と結びついているかも知れない。また、同質性が高く、皆が同じ方向を向いていることを前提とするようなコミュニケーションが日常から政治レベルに至るまで浸透している国民性が、右だ左だといった区分けを好まないという部分もあるだろう。「白いご飯とお味噌汁が好きであることでつながっている日本人」といった意識は、米の消費量が減ろうとも、共通の感情として残っているのだ。
 ただし、それは最初に述べたように、東日本大震災以降の日本では、意識の違いとして分断が芽生えている。曖昧なゆえにやりすごすことに慣れた日本人でも、食に関する指向、嗜好の違いが明確な主張となる状況が生まれている。

註釈
(1) 絶対菜食主義者。肉だけでなく乳製品さえとらない。
(2) 食材をなるべく生か低加熱で食べ、食材の酵素やビタミン、ミネラルを効率的に摂取しようとする食生活の実践活動。
(3) 極端な例としてはマクロビオティックがある。「健康による長寿」「偉大な生命」といった意味。語源としては18世紀ドイツに遡る。従来の食養に、桜沢如一による陰陽の理論を交えた食事法であり、身土不二、陰陽調和、一物全体といった独自の哲学を持つ(1920年代-)。玄米、全粒粉を主食とし、主に豆類、野菜、海草類から組み立てられた食事である。フランス、アメリカで普及活動が行われ、1970年代、従来の欧米型食生活が生活習慣病の増加をもたらしているとの反省から「アメリカの食事目標(マクガバン・レポート)」が出された折、伝統的な和食への関心が高まり、同時にマクロビオティックも受け入れられた。日本に逆輸入され、健康食ブームに伴って注目が集まっている。
(4) 歴史学者ブライアン・サイモン著『お望みなのは、コーヒーですか』(岩波書店、2013年)
(5) 『アメリカ政治の壁──利益と理念の狭間で』(岩波新書、2016年)
(6) エミリー・マッチャー著、森嶋マリ訳『ハウスワイフ2.0』(文藝春秋、2014年)
(7) ニューヨーク在住経験があり、現在はブルックリン在住のライター、佐久間裕美子が書いた『ヒップな生活革命』(朝日新聞社、2014年)
(8) 1960年の国勢調査より人口集中地区を都市、それ以外を農村と定義したが、そのとき既に都市人口のほうが多かった。
(9) 三浦展『ファスト風土化する日本──郊外化とその病理』(洋泉社、2004年)
(10) 原田曜平『ヤンキー経済』(幻冬舎新書、2014年)
(平成29年1月29日)