CDI logo  トップページプロジェクトファイル ⊃ 新たな「学生街」への展望 (最終更新 2004年7月16日)

新たな「学生街」への展望

(『都市問題』第95巻第4号/2004年4月号掲載、発行:東京市政調査会)

半田 章二

はじめに


 私の職場がある京都の町には、今年も全国から大学新入生たちがやってきた。夢と希望を胸に、まさに「人生の春」を謳歌しようとする若者たちである。父親や母親に付き添われ、中には方言まじりで語らいながら大学周辺を歩く親子の姿は、春の京都の風物詩とも言える。
 「昔は、ここに○○という喫茶店があったんやけどな…」と息子につぶやく父親。きっとこの父親も学生時代を京都でおくったのだろう。少しは土地勘のあることがうかがえる。しかし、記憶とはかなり様相を異にする「学生街」に隔世の感を強くしているようだ――。
 確かに1970年代までは、この京都にも、各大学の周辺には学生のための食堂や喫茶店、書店、下宿屋などが立ち並び、そこに学生たちがたむろするという、他の町とは明らかに異なる雰囲気とたたずまいを持った「学生街」がいくつか存在していた。そして、ある種の「特権的」な若者が主体となったライフスタイル、行動様式を核として、大学のキャンパス文化と融合した、総じて学生街文化といえる魅力ある都市文化を創造していた。
 しかし、80年代以降、大都市では大学の市外流出があいつぎ、学生街が消失していく。この京都も例外ではなかった。こうした文化創造の舞台としての学生街の消失は都市や地域にとって大きな損失ではないか、そして新しい時代の「学生街」の創造を企図すべきではないのか… 。こうした問題意識から、我々は平成10年に総合研究開発機構(NIRA)の助成を受けて『近未来型成熟社会のプロトタイプとしての「学生街」』と題した研究を行った(以下「学生街研究」と略す)。
 しかし、単に「学生街」における商業等都市機能の歴史的変遷を探るといった研究は面白くない。そこで、人びとの「学び」の将来や若者の意識やライフスタイルのゆくえ、情報化がさらに進んだ近未来の社会を展望し、そこでの「学生街」のあるべき姿を探るという未来志向を持った研究とした。そのほうが京都だけでなく大学や大学を有する都市や地域が今後の学生街のあり方について再考する契機になると考えたからである。
 そうした未来志向であるがゆえに、「学生街」を単に「大学を中心とした商業集積地区」ではなく、「時間的な余裕があり、さまざまな学問を志す人びとが人生の目標の実現に向けて準備し、より良く生きるための交流を深め、文化を育むまちであり、その本質は“出会い”と“自己実現”にある」と定義し、「学生街」の本質を「出会いと自己実現」という概念に集約することによって、多様な「学び」の選択や、多様な価値に基づく生きがいの選択が可能で、情報化の進展が豊かな人間関係を築く社会、すなわち近未来に実現されるべき成熟社会の学生街に必要な構成要素を導き出そうとした。逆に言うと、そうした「出会いと自己実現」を担保する学生街のような「中間的な社会」が21世紀の各地域に実現されるべきではないかということでもある。
 学生街は、大学の自己改革の動きや大学への社会的期待や評価といった要因とともに、そこでの「主役」である学生の意識や行動と不可分である。本論は、先にふれた「学生街研究」の中で行った現代の大学生の意識や行動についての考察を視座として、新たな「学生街」への展望を拓こうと試みるものであるが、「学生街研究」の成果と共同研究者の知見をベースに「楽天的に」展開するものであることを初めにお断りしておきたい。

パリ型とボローニャ型

 一般に「学生街」と言うと、海外ではパリのカルチェ・ラタンやボストン、オクスフォード、ハイデルベルク、国内では東京の本郷や早稲田、三田、京都の百万遍といった独特の魅力を持った都市や地域をイメージするが、筆者を含め1960−70年代に学生生活をおくった今の50歳前後から上の世代には、「学生街」という言葉は「青春」や「青年」という言葉とセットになって独特のノスタルジーを喚起する。
 そもそも学生街の起源は、12世紀のヨーロッパに都市が成立して富が蓄積されて大学が誕生し、キリスト教が隆盛をきわめ中世文化が花開いた時期に遡る。大学の成立とともに、現代の「学生街」のイメージからはほど遠いものの、学生が住み集う町もほぼ軌を一にして、いわば自然発生的に形成されたと推測される。大学という高等教育機能を果たす社会的機関の原型は、きわめて乱暴に言うと、その誕生のしかたにおいてパリ大学とボローニャ大学の2つに大別され、「学生街」もこの2つの理念型に大別できる。大学と都市の関わりにおいて、大学(修道院)が講義を聞きたい学生(都市住民)を囲い込んで発展した「パリ型」と、もう1つは、それとは逆に講師(修道士)を都市のさまざまな場所に招き出して学生や都市住民が自主的に講座を開いた、すなわち、大学がまち全体をキャンパスにした「ボローニャ型」にである。結論的に言えば、近未来の成熟社会においては、大学と都市や地域の関係として、新しい「ボローニャ型」を目ざすべきではないかというのが筆者の見解である。

「タウン」に見守られた「ガウン」

 中世の学生たちはヨーロッパ中のあらゆる地域から、初めはこの2つの大学を目ざしてやってきたが、やがて各地に大学が設立され、規模はさまざまながら「学生街」が形成された。特にパリ大学の場合、セーヌ川左岸は学生や教師が集うセンターとして発展し、さまざまな商店や施設が集積する。ラテン語の飛び交う「カルチェ・ラタン」は「学生街」の代名詞となり、現在も独特の知的雰囲気を持つ地域として知られる。こうした学生街では「ガウンとタウンの対立」と呼ばれる外の社会との断列がしばしば起こった。教師と学生は聖職に由来するガウンをまとい、一種の特権意識がある。外の世界はタウンであり、市民常識がまさる。大学によって支えられた町であっても、タウンは学生たちの理不尽に抵抗せざるを得なかったのである。
 一方、わが国においても、仏教伝来以来の高等教育の永い伝統があるが、最初に近代的な大学が設立されたのは明治期の東京大学であり、「学生街」が出現するのは、さらに20世紀初めに大学令が施行され、教師や学生といった新しい社会的身分が登場して後のことである。近代国家は貧富を問わず、国民のあらゆる階層から人材を登用しようとした。とりわけ首都東京には大学や高校が集積しており、全国から立身出世を夢見て若者が上京した。東京大学は当初から本郷に場を定めたが、こうした学生のための下宿が軒をつらね、古本屋や食堂、質屋が登場し、わが国初の「学生街」が出現する。東京では、早稲田や三田が本郷に続く「学生街」になり、都市に独特の彩りを与えた。
 戦前までの学生文化は、旧制高校の「バンカラ」と私学に見られる「ハイカラ」を象徴として語られることが多いが、全寮制の旧制高校では独特の文化を形成した。学生たちは町からは「国を支えるエリート」として特別の尊敬を集め大切にされた。わが国にも、ややもすれば高踏的にもなるエリート文化が原因で「ガウンとタウンの対立」はあったものの、初期の学生街における学生・教師と市民との交流は、主に「タウン」の側の温かいまなざしのもとで、きわめて良心や善意に満ちた関係が基本にあり、豊かなコミュニケーションがあったと推測される。

「学生街」から発信された文化

 戦後、わが国が民主国家として再出発するとともに、大学も学校教育法の公布により新制大学に移行する。新制の国立大学は地方分散の観点から全国的に偏りなく設置されたが、私立大学は経営的に成り立つ大都市に集中せざるを得なかった。昭和30年代には大学設置基準が緩和されて大学は増加し、大学進学率も着実に上昇していった。大学の大衆化の始まりである。
 もはや学生は「エリート」「特権的な階層」ではなくなり、世間の尊敬の念は薄れていく。大学の大衆化は、「すし詰め教室」という言葉に代表される教育環境の悪化や、地方から大都市への進学者の大量移動、果ては地域間労働力のアンバランスといった問題を招来した。教育環境が未整備である大学に入った多くの若者の間には、伝統的な大学のあり方や制度に対する不満が堆積していく。昭和40年代には学費値上げや制度改革をめぐって、果ては社会体制の変革を求めて学園紛争が全国的に広がっていく。この頃の「学生街」は授業を受けることのできない学生たちが町を逍遥し、喫茶店や居酒屋など「溜り場」では集会や議論が繰り返され、カウンターカルチャー的な若者文化、カレッジ文化が多彩に花開いた。現在「学生街」と言うとき1つの時代的イメージを喚起させる、大学周辺の町が賑わう時代になるのである。
 しかし、学園紛争後の1980年代以降、次第に都心の手狭になったキャンパスから郊外に移転する大学が増加し、「学生街」の趣は薄れていく。学生の生活は豊かになって、居住形態は「風呂つきマンション」が主流になり、「賄いつき下宿」の時代にはあった大家さんとの家庭的なつながりや地域の人との温かい交流、コミュニケーションはなくなった。当時の若者文化として開花したフォークソングや小劇場、漫画文化、ジーンズ・ファッションなどは、現在の大衆文化や風俗の中にも生きつづけているが、「学生街」の文化創造性や文化発信性はきわめて脆弱になったと推測される。

進学率50%時代の「大学生像」

 では、現代の学生街の主役たる学生のライフスタイルや意識はどのようなものであろうか。「学生街研究」では、現役大学生のライフスタイルや生活実態、大学や学生街等に対する意向を聞き、現代の「大学生像」を明らかにするため、国内3地域におけるグループ・インタビュー調査とアンケート調査を行った。進学率50%時代の平均的な大学生像をまとめると、以下のようになる。
 まず、学業やサークルなど学内の生活については、講義やゼミには必ずまじめに出席し、単位をきちんと取得しており、しかし「エンジョイする」ことも忘れず、学内だけでなく学外のサークルにも複数属するという学生が一般的である。学内には「デパート化」した生協があり、たいていのものは揃う。商業機能という意味では、特に郊外立地の大学では、大学の中は「学生街化」しており、学生は学外に出る必要はない。しかし、快適なレストランやラウンジが整備されていたとしても、必ずしも彼らの「居場所」にはなっていないことがインタビューからうかがえた。便利になったにもかかわらず、彼らは学内に最低限必要な時間しかとどまろうとはしないのである。
 それは、サークル活動やボランティア活動など学外の生活が「忙しい」からである。いわゆる「ダブル・スクール」をこなす学生も、文科系ではアルバイトをする学生も多い。また、ボランティアやNPOなど社会参加への意欲はきわめて高い。このように多忙だからこそ学内にとどまれないのである。したがって、学生の「溜り場」は分散し、大学周辺は選ばれなくなっている。そこで携帯電話やパソコン通信は、彼らの空間的な分散を解消するために不可欠の道具となるのである。そのため「待ち合わせ場所」は消滅した。このことから、町なかに立地する大学の学生ほど、サークルにしろボランティアにしろ、文化的な活動は学内でも周辺の学生街でもなく、どこかよその場所に拡散しているものと推測される。
 現在の「学生街」を闊歩する一般的な「大学生」について印象深い点をあげると、まず第一に、自分たち大学生が特殊な存在であるとは誰一人考えておらず、大学生に特有なライフスタイルは希薄で、「若者」一般の中に融解しているということである。次に、将来のキャリア形成を意識し、日々「成長」することが生活目標であるかのように見え、上の世代からすると「脱モラトリアム」とも思えるライフスタイルであることである。そして、同級生やサークルのメンバー以外にも、高校時代からの、またバイト先の気の合う仲間との人的ネットワークを学外に多重に持ち、きわめて社交的なことである。3点目は、「現代の大学生は人間形成の手段として従来の(文学書、思想書等の読書による)人文的教養でなく、友人との交際を選ぶ傾向が強い」という竹内洋京都大学教授の指摘とも符合するものである(『教養主義の没落』P.239)。

携帯の中に現代の「学生街」がある!

 インタビュー調査の中で特筆すべきは、特に現代の大学生の「交際」を担保する「情報化」の進展である。アンケート調査でも、様々な情報ツールによって頻繁に友人たちとのコミュニケーションを図っており、「社交的」であることが追認できた。彼らのコミュニケーションの特徴の1つは、同じ学生が直接会って話をする対話を頻繁に行うと同時に、携帯電話や電子メールによって頻繁にコミュニケーションを図っていることである。情報化と直接対話は彼らにとって二律背反ではなく、むしろ補い合う関係にある。もう1つは、携帯電話を持つ学生ほどその利用頻度が高いことであり、情報ツールのパーソナル化、モバイル化が後押しする人間関係のモバイル化ともいうべき徴候が読み取れることである。
 かつての典型的な「学生街」では、学生たちがお気に入りの溜り場で仲間と集い、時間を消費し、飽くことなく議論しあい、これをまた別の学生仲間や地域の人びとが眺めるという可視的な構図が存在したが、空間を超えて個人と個人を結びつける情報メディアの発達は、それだけが理由ではないとしても、このような交流機能の可視性を奪い、空間的には個人を都市の中に分散させ、相互の結びつきを潜在化していった。
 その代償のように現実の都市空間のいわば裏側、サイバースペースにおいて友人同士が共有する擬似的な「場所」が成立する。インターネットの中の「フォーラム」や「会議室」などヴァーチャルな「場所」がその典型であり、そこにかつて「学生街」の溜り場で見聞きした熱い議論の写像を見ることができる。モバイル化した学生たちが現実の都市空間のどこにいようと関わりなく、インターネットのフォーラムのようなある特定の「場所」に結集するなら、それは新しい「学生街」と呼べる。また個々の学生を中心に考えれば、彼が張り巡らせたネットワークそのものも潜在的な「学生街」だと言うことができる。事実「情報武装」した、ある学生は「携帯の中の電話番号とメールアドレスが私の『学生街』である」と語った。
 仮想空間に転写された「学生街」を再び現実の都市空間に再転写できるかどうかは、学生たちがサイバースペースで出会う頻度が高まるほど現実に顔を合わせて対話しており、「対面」への欲求が高まることを考えれば不可能ではない。しかし、現実に「対面」できる場所は貧弱である。彼らの「対面」が要求する場所は決して大きな空間ではなく、小さくプライベートな、あるいは「セミパブリック」なスペースであり、モバイル化した個人に便利な、都市の結節点のような場所に分散的に配置されたスペースであろう。このようなニーズの中で大きな空間が必要であるとすれば、それは小さな「対面」が時に連なって大きな「対面」を実現しようとしたときに必要なスペースであり、具体的にはイベントスペースや集会場、グランド、高度な機能を備えた特化型の文化・学術施設の類である。それらは既存の大学が制度として開かれさえすれば、スペースとしては十分事足りる。
 重要なことは、既存の大学が小さな「学生街」を吸収して囲い込むのではなく、小さな「学生街」の側から既存の大学の機能を「ばらして」使うことのできるシステムをつくることである。一人一人の学生のダイナミックな動きと彼ら自身のネットワークの中で、大学は情報ネットワークや都市の結節点となって必要な機能や空間を提供していく役割を担うことになる。大学を「訪れる」学生は固有のネットワークや情報処理装置を持ち、簡単に外部に接続できるプラグを備えている。どの大学へ行ってもプラグを差し込むだけで、大学の機能を自分の必要とする限りで使うことができる。このような学生たちの動きの軌跡が最も濃密になるところが、新しい「学生街」となっていくのではないかと思われる。

市民・学生が融合する「新しい学生」の形成

   現在、大学への入学者は、高等学校の卒業予定者など18、19の若者が大多数を占め、基本的には「大学生=若者」という図式が社会的に成り立っている。しかし、現在の大学生全体に占める比率は低いが、大学の社会人特別選抜制度や夜間部・昼夜間開講制といった制度や公開講座の普及により、一般成人や高齢者など「新しい学生層」は今後さらに増加すると予想される。また、育英奨学制度は充実してきているとはいうものの、親の援助の下に高等学校を卒業するや進学するのではなく、一度社会に出て自分が勉強したい学問を見つけてから大学に入るというスタイルも普及していくのではないかと思われる。さらに、留学生の存在も大きい。かつて中曽根内閣のときに打出された「留学生10万人構想」は静かに達成され、彼らも今後「新しい学生」の中で多数派となっていくはずである。
 これまでの大学は、若者である多数の学生と大人である少数の教師によって構成される閉鎖的な二元社会であった。社会人学生は今のところ少数で、この二元社会の閉鎖性を打ち破るほどの勢力ではないが、近い将来、社会人学生は大学や講義のあり方に対する、ある種のモニタリング機能やクリティシズム機能を持つようになることが予想される。実際、ある大学教師は、社会人学生の講義内容に対する厳しい目を意識せざるを得ないこと、社会人学生が教室の2割以上を占めたとたん、一般学生も巻き込んで教室の雰囲気ががらりと変わってしまったという実感をもらす。
 こうした状況の中で「大学が自らを地域に対して開く」という政策を待つまでもなく、現実は社会人が大学に入ってくることにより大学は地域社会の市民の目にさらされ、「市民によって大学が地域社会に開かれてしまう」というベクトルが生じる。それは市民が学生の目を持つことであり「市民の学生化」現象によって生じる変化である。
 これまでの学生街は、大学とそれを取り巻く空間や状況の中で、市民と学生がまったく別の主体として併存することで形成された。しかし、こうした「市民の学生化」は「学生の市民化」とあいまって学生と市民の相互融合化現象をもたらす。大学あるいは学生が社会的エリートであった時代にくらべれば、2つの主体の垣根ははるかに低くなると予測される。近未来の学生街は、「学生がいて、それを容認・支援する市民がいる」というだけの図式ではなく、「市民が学生として振る舞う場」という要素も持つことになろう。
 一方、従来の学生層が、その大学が立地する都市・地域に対してこれまでにない働きかけをし、それにより学生層自らが対都市・地域との関係において変質していく可能性を持っている。それは各地で本格化しつつあるインターンシップ制度が後押しするものであり、後に大学コンソーシアム京都の事例を取り上げるが、在学生の就業体験は「学生の市民化」を促進すると考えられる。学生はインターンシップを将来のキャリア形成と結びつけて考えており、大学の近くに多様な受入先があることが大学の備えるべき新しい魅力につながる。
 学生が企業や行政を介して地域社会に入り込んでいくという状況は、これまでの学生が身分・階層として地域社会によって囲い込まれていた状況とは異なる学生と地域との関係をつくりだす。各地で学生自身によるNPO活動が生まれており、これも学生の地域への新しい融合形態ととらえることができる。囲い込まれた状況ではなく、学生が都市・地域のシステムの構成要素の1つとして、そのシステムの中に自由に出たり入ったりする状況、学生が同時に市民であり地域住民であるという状況は、まさに「学生の市民化」と呼ぶことができる。「市民の学生化」と「学生の市民化」により新しい「学生」が形成されるのである。

大学のまち・京都の試み

 ここで京都という町の「ガウン」との関わり方について見ておきたい。
 かねてより「大学のまち」「学問の都」と呼ばれた京都は、市内に38の大学・短大が存在する、他に例を見ない大学集積都市である。これらの大学は、京都の知的文化資源として文化や産業の振興をはじめ、都市づくりに大きな役割を果たしてきた。
 京都市では、勉学や技術の習得のために全国から京都に集まってきた若者たちが、都市発展のエネルギーになり、また伝統的な土壌の上に新しい文化を創造する力になってきたことを十分認識し、「若者に魅力あるまちづくり」といった若者に焦点をあてた調査研究も行ってきた。
 しかし、1980年代中葉から大学の市外への流出が相次ぎ、このままでは都市活力や賑わいの衰退をまねくとして市外流出に歯止めをかけることが京都市の課題となった。一方、平成4(1992)年をピークにした18歳人口の減少、若者の進学志向の変化、国際化の進展、生涯学習志向・リカレント教育に対する関心の高まりなど、大学を取り巻く社会・経済情勢も大きく変化している。これらに対応するため、大学自らも施設の整備・拡充や教育・研究システムの開発など新たな取り組みを進める一方、行政としても、京都における大学の果たす役割の大きさを考えると、大学と協力しながら「大学のまち」の地位をより確固たるものにする必要があった。そこで双方の必要から平成5(1993)年「大学のまち・京都21プラン」が策定される。このプランは、大学と地域の連携・協力や大学同士の連携など、大学と地域の総合的な振興を図るために策定された、わが国でも初めての長期的なビジョンであるが、いわば、先にふれたまち全体がキャンパスという「ボローニャ型」の学生街を目ざす試みとも言える。

京都に来ればすべての大学で学べる

 このプランを実現していく主体として、平成10(1998)年に設立されたのが財団法人大学コンソーシアム京都である。大学コンソーシアム京都は、その2年後に京都駅前に建設された中核施設・キャンパスプラザ京都を中心として、シティカレッジや単位互換制度の運営や、産官学連携・共同研究事業、インターンシップ事業、学生交流事業等、幅広い事業を行っている。コンソーシアムには、現在、市内の大学だけでなく大阪の大学も加わり、計51の大学と京都市、さらに4つの経済団体が加盟しているところが「オール京都」体制である。
 なかでも、シティカレッジは、社会人の学習ニーズの高度化に応えるものとして、京都の各大学から提供された科目を正規学生と同様に(科目等履修生・聴講生として)受講することができる制度である。現役学生にとっては「京都に来れば、すべての大学で学べる」ことが魅力となっている。科目等履修生では単位の取得が可能な制度で、大学間の単位互換事業はインターンシップ事業とともに、全国に先駆けて実現したものである。京都らしく「日本文化・伝統文化」や「京都」「宗教」等の分野の人気が高く、毎年500人前後の人がキャンパスプラザを中心に市内の各大学で出願した科目を受講している。京都府外の受講者も約3割で、遠くは東京・神奈川、愛知、広島といったところに及んでいる。
 京都市が「大学のまち・京都」をテーマに実施したアンケート調査(市民3,000人対象、平成15年)によると、京都市民は「大学のまち」であることで「アカデミックイメージの形成」や「まちの賑わい」をメリットと感じ、「大学施設の利用」や「市民講座等への参加」「まちづくり活動等での連携」といったことを望んでいる。特に「アカデミックイメージの形成」は50歳代以上の高齢層に支持されている。
 また、すでによその大都市にも定着しつつある都心サテライト・キャンパスの先駆けとも言えるキャンパスプラザ京都は、京都駅前という市内からも市外からもアクセスの良い場所にあり、交流拠点として賑わいの絶えない機能的な「ミニ学生街」である。しかし、誕生して3年にすぎないとは言え、その存在は3人に1人の市民にしか知られておらず、残念ながら低い認知度となっている。全国の受験生やその親たちの認知度も推して知るべしであろう。
 現在、「大学のまち・京都21プラン」の改訂作業が行われていると聞くが、オール京都の「知」のネットワークを活かし、全世界の注目を集める創造的事業の創出が期待される。市民や企業、地域社会と大学との望ましい「出会い」や、学生や学びたい人の「自己実現」のあり方を模索しつつ、キャンパスプラザを「タウン」になじまれる存在にしていくことが大きな課題であると言えよう。

新たな「学生街」のイメージと展望

 市内に38の大学を持ち、また、大学に関わる幅広い事業の展開や設立までの長い前史があるにもかかわらず、京都市では中核施設に対する「タウン」の認知度が低いという現実は、「学生街」の人為的な創出の難しさ、長い時間の必要性を物語るものとも言えよう。しかし、地域が「アカデミックなイメージの形成」やまちの誇りの醸成、賑わいの形成、そして現在なら何より産学連携による果実を企図するとき、新しい「学生街」の創出は一考に値する活性化モデルとなるはずである。
 人びとがさらに高度な文化活動や生涯学習活動にいそしむ近未来の成熟社会においては、かつてのように同質の年代・階層でなく、異質な年代・階層の学生が主流になるとともに、社会に出る前に学生になるのではなく、市民がいつでもなりたいときに学生になる。今後望まれる学生街も、かつて大学周辺に自然発生的に成立していたものとは違ったものにならざるをえない。
 しかし、かつての学生街が持っていた大学と自分の部屋の間の、とまり木のように休息できる、自分の居場所と思えるような居心地のよいアジール(避難場所)のような空間、そして同じような条件の人間との「出会い」や他者との交流を通じての「自己実現」の機会を可能にする空間は、「新しい」学生にとっても当然必要である。
 彼らは、大学を含めた地域のさまざまな知的資源やチャンスを最大限自分のために活用するプログラムを自分で書き、実行する。彼らにとって最も都合よく整備された活動拠点と、その周辺に形成される休息できて居心地のよい「出会い」と交流を通じての「自己実現」の機会を可能にするさまざまな空間、それらが醸し出す自由な雰囲気のある界隈、そして、そこでは「新しい」学生たちによって多様な価値の葛藤を見ながらも新しい文化が創造される…、それが新しい時代の学生街のイメージである。
 そこでは、生涯学習や文化、芸術、スポーツを振興するためのシステム、大小のミーティングプレイス、多目的スペース、研究情報図書館やアートセンター、ギャラリー機能を持つ施設が望まれよう。今後、大学の新設や大増設は期待薄であるが、複数の大学の連携による共同事業の展開やサテライト・キャンパス等の新設は可能性があり、地域にとって期待できる。利用者であり受入れ者である市民が選択したソフト・ハードのシステムと機能を意図的人為的に集積し、その効果で周辺に飲食店などを立地させ、ある種の猥雑さも取り入れつつ、学生街としての界隈を形成することは必ずしも不可能ではない。
 大学が大衆化する以前の学生街は、将来を約束された若者たちの高踏的なエリート文化のインキュベーターとして機能し、大学が大衆化しつつあった時代の学生街は、高度成長を続ける産業社会に追随する大衆操作的な商業文化に抗うカウンターカルチャーのインキュベーター(孵化装置)であった。そして、学生と市民が相互置換しうる将来の学生街は、市民の学び文化や多文化による新しい創造行為のインキュベーターとなるはずである。
 多文化が共存する新しい「学生街」が生み出す文化として、以下の3つが期待される。1つは、市民と学生の協働文化である。文化的選択的な縁によって成り立つ関係をベースに、学生だからという甘えのない、市民と学生がともに働いて一般に通じる文化の創造である。2つは、地域文化のメジャーな担い手になるということである。新しい学生街に生まれる文化は市民が初めから学生として加わっているため、地域のメジャーな文化になる可能性が高い。演劇や音楽、スポーツ、地域研究など、さまざまなジャンルで地域文化のメジャーな担い手となることである。3つは、新しい産業やコミュニティ・ビジネスのインキュベーションである。学生はかつてのように社会経験のない同年齢集団でなく、社会経験があって、多様な年齢、多様な能力・感性の集団であり、また生きがいや自己実現を模索する人たちであるため、そこに自ら事業を起業し同志や出資者を募るといった「出会い」が生まれていくことである。

(主要参考文献)
京都市大学21プラン策定委員会『大学のまち・京都21プラン』京都市、平成5年
京都市『平成15年度第1回市政総合アンケート報告書』京都市、平成15年
樺山紘一『都市と大学の世界史(NHK人間大学テキスト)』日本放送出版協会、平成10年
日下公人他著『今、日本の大学をどうするか』自由国民社、平成15年
竹内 洋『教養主義の没落』中央公論新社、平成15年
株式会社シィー・ディー・アイ(NIRA)『近未来型成熟社会のプロトタイプとしての「学生街」』、平成11年


株式会社シィー・ディー・アイ   http://www.cdij.org/eye/gakuseigai.html