嗜好品文化研究会

嗜好品文化への招待
【1-4】そばと鮒寿司


 とはいうものの、「身体の生理的欲求がすべてか」というと、そんなことはなさそうです。そこで思い出すのは、ぼく自身にとっての「そばと鮒寿司」です。


 いまでは、独特の風味のある日本そばが、ぼくの好物の一つになりました。そばがきやそば湯も「うまいなあ」と思います。しかし、そばの味わいが分かるようになったのは、30歳を過ぎたころだったような気がします。それ以前も、嫌いだったわけではありませんが、わざわざ高い金を払って「十割そばを注文しよう」などとは考えませんでした。
 それが30歳ごろをさかいに、ゆであげて冷やしたそばの独特かつ微妙な味と香り、歯切れのよい舌触り、きわめて軽い苦みなどが忘れられなくなりました。最初は何もつけずに一口、ついで少量のだしをつけて一口......と食べ進んでいきます。とくに欧米を旅して帰国したあとなど、これを口にすることで初めて「日本に帰ってきたなあ」という実感が持てるようです。ここには、生理的欲求に直結しない嗜好が作用しているのでしょう。


 そういう意味では、琵琶湖周辺で人々に親しまれている鮒寿司も同じなのだろうと思います。ぼくの場合は、初めて鮒寿司を口に入れたときから、その美味に心を奪われました。しかし、その直前、鼻孔を刺激した、腐敗臭にも似た強烈な匂いには一瞬、たじろがされもしました。この匂いのために、鮒寿司はすべての人に好まれるというわけにはいかないようです。それに、好きな人は徹底して好きだといいますが、他方、近づくのさえ嫌だという人も、少なくないように見受けられます。


 日本だけじゃない。広く世界に目を向けると、これに類した食品の数は、けっこう多いのではないでしょうか。中国語で「香菜」、タイ語では「パクチー」と呼ばれて、とくに東南アジア各地の料理に多用されるコリアンダー、フランスやイタリアの強烈な匂いのするチーズ、羊の肉・内臓・血をオート麦やたまねぎなどの野菜に香辛料を加えて調理し、羊の胃袋に詰めて加熱したスコットランドのハギスなどは、その一例だといえます。
 これらの食品は、馴染みのない外来者には、しばしば忌避されます。むろん、それが常食されている地域で生まれ育った人々のなかにも「嫌いだ」という人はいるのでしょう。でも、その比率は、それ以外の地域におけるほうが圧倒的に多いと思われます。


 こう考えてみると、日本そばや鮒寿司への嗜好は、それらを食べる経験を通して、後天的に形成されると見るべきでしょう。という意味において、こうした嗜好は「文化的嗜好」とでも名づけるのが適切なのではないでしょうか。
 それに対して、前項で検討した「甘み」「油脂」「アミノ酸」を好む味覚は、身体の状態が求めさせるがゆえに「生理的嗜好」と呼ぶことができます。それは、いわば人間の身体の先天的な資質が呼び起こす嗜好にほかならないのだと考えられます。

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