嗜好品文化研究会

嗜好品文化への招待
【1-3】牛肉のすき焼きとバヤリースオレンジ


 つぎに紹介したいのは、一九五〇年代なかば、子供のころの好物をめぐる話題です。


 その当時、なによりものご馳走だと思えた食事のひとつは「牛肉のすきやきと炊きたての白飯」でした。学校が終わって家に帰るや否や、ランドセルを店先に投げ出し、仲間がソフトボールを始めているはずの焼け跡の広場に急ぎます。で、暗くなるまで遊び惚けたあと、再び家に帰って風呂から上がると、畳敷きの部屋の真ん中の丸い卓袱台に置かれたガスコンロの上の鉄鍋から、牛肉と醤油の煮える匂いが立ちこめているのです。それをおかずに炊きたての白飯を掻き込むのですが、そんなときには、
 「こんなうまいもんが世の中にあるやろか」
 と思わされたものです。

 無理もありません。いま思うと、牛肉のタンパク質の分解したアミノ酸は、育ち盛りの体の血肉の「原料」そのものです。醤油とともに砂糖の甘みで味付けされた牛脂と白飯のうまみは、屋外を走り回って消費したカロリー源にほかならない。そして、煮える醤油が発する、アミノ酸を含んだ「だし」の良い香りが、強烈に食欲を刺激していたのでしょう。
 いうまでもなく牛肉のすき焼きは、日本料理の典型のひとつです。しかし同時に、それは少年の身体生理が強く求める栄養物の集大成でもあったのだと思います。
 むろん今なお、牛肉のすき焼きと炊きたての白飯の組み合わせは「うまい」と思います。でも、すでに老齢期を迎えたぼく自身の、この組み合わせに対する嗜好が、当時の直截さを持ち続けているかどうか、やや疑問とするところをなしとしません。


 もうひとつ、思い出すのは「バヤリースオレンジ」です。温州みかんの果汁を水で薄めた飲料で、今もアサヒ飲料から発売されています。
 ただ一九五〇年代なかばには、かなり高価な品物だったと思います。だから、ねだっても母は、めったに買ってくれなかったのです。それは、そうでしょう。「果物のジュース」という商品が、昭和三〇年代以前の日本には、ほとんどなかったのです。
 しかし、例外的に、それを飲ませてもらえる機会がありました。それは、風邪か何かで熱を出し、それが回復期に向かうときなのです。「のどが渇いた」というと、一本だけ買ってきてくれるのです。それは、どんな高貴な薬よりも効果があるような気がしました。熱っぽい体の求める水分に、同時に体力をよみがえらせる甘みと、わずかながらビタミン類が含まれていたからかもしれません。


 こうしてみると、ある身体の状態が求める食品や飲料は「うまい」のだと思います。それをより広く考えると、最も基本的な栄養としてのカロリー源となる甘みと油脂の味わい、身体の構成要素となるアミノ酸への嗜好は、あらゆる人の嗜好でもあるのでしょう。

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