嗜好品文化研究会

嗜好品文化への招待
【1-7】ワインのうま味に目覚めるまで


 そういえば、今では日常的に嗜むようになったワインへの嗜好も、よく似たプロセスを経て形成されたようです。
 というのも、20年ばかり前まで、ワインといえば、甘味ブドウ酒や一升瓶入りの安ワイン、外来物なら薬草で味と香りをつけたベルモットあたりを飲んだ経験がある程度でした。だから、食中酒もたいてい、ビールや日本酒で済ましていたように思います。


 ところが、あるとき、さまざまなワインをまとめて、いわば体系的に、その味を試す機会に恵まれたのです。日本の、あるワインメーカーの勝沼醸造所でのことでした。
 インストラクターは、『比較ワイン文化考:教養としての酒学』『ワインづくりの思想:銘醸地神話を超えて』(いずれも中公新書)などの著作がある麻井宇介さん(故人)。冒頭に、こんな話をされました。
 「ラテン世界でのワインは『ブドウから造った酒』ではありません。それは『発酵したブドウ果汁』なんです。今日は、そのことを納得してもらいます」
 その上で、搾りたてのブドウ果汁、少し発酵が進んだ発泡性のブドウ果汁、発酵が終わって「ワイン」になったばかりのブドウ果汁、さらに数年の熟成期間を経てワインになった何種類かの「ブドウ果汁」、つまりは立派に熟成したワインを試みたのです。
 それらを口に含むと、ブドウ果汁の変身のプロセスが追体験できます。同時に、完成したワインにも、いろんな味と香りのあることが分かりました。いまだ果実臭の残る軽いワイン、昔の万年筆用のインクのような匂いのする、いかにも重々しいフルボディのワインなど、それぞれの個性が口腔内で際だちます。
 ところが、正直なことをいうと、「これが上質のワインだ」と説明されたものが美味なのかどうか、そのときには判然としませんでした。以来20年近く、安物から少し上等まで、あるいはブルゴーニュタイプやボルドータイプなど、おそらく2,000本近くのワインの瓶を空にしただろうと思います。くわえて、ワインに関する書物も、かなり読みました。


 こうしたプロセスを経て、多様なワインの香りや味わいの違いが、徐々に分かるようになってきました。そして、最初は「インクのような匂いがする」と思った、ボルドータイプが好きになるなど、ぼく自身のワインへの嗜好は、着実に発育しつつあります。
 さらに今年の冬には、余り食指の動かなかったブルゴーニュタイプを、鴨鍋をつつきながら飲むことで、その美味に目覚めることにもなりました。
 これもまた「情報的嗜好」と呼ぶにふさわしいのではないでしょうか。


 ただ、やや蛇足めきますが、こうした嗜好の形成過程は、本来ワインという飲料のなかった日本社会だからこそ現出するのでしょう。子供のころから徐々にワインに親しむ地中海世界でのワインへの嗜好は、むしろ「文化的嗜好」にほかならないのかもしれません。
 さらにそこでは、かつてはワインが栄養補助的な飲料だったようです。むろん今もなお、それが日常の食事と不可分であることはいうまでもありません。とすれば、ワインへの嗜好は「生理的嗜好」としての側面を伴ってもいるともいえそうです。

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