嗜好品文化研究会

嗜好品文化への招待
【1-8】どんな美味にも「飽きる」ことがある


 ここまで、味覚と嗜好をめぐる、ぼく自身の生活史における体験を振り返ってきました。その結果、食味への嗜好は「生理的嗜好」「文化的嗜好」「情報的嗜好」という三層に分けられるのではないかという仮説に逢着することになりました。
 むろん、たった一人の人間の体験が、どの程度の普遍性を持つのかは、大いに疑われねばなりません。でも「仮説」とは、つねにそういうものだともいえるでしょう。
 その上で、ひとつの応用問題を提起し、同時に仮の答を示してみることにします。それは「飽きる」と「慣れる」という、多様な味覚への嗜好のダイナミズムです。


 まずは「生理的嗜好」です。ある栄養素が欠乏すると、実験動物のラットなどは、それへの要求行動を顕在化させることが分かっています。
 たとえば、絶食時に甘い水溶液を与えると、彼らは喜んで、その摂取量を増やします。しかし、それが充足されると、その特異的な行動は衰えていきます。
 それだけじゃない。与えた甘い水溶液が、栄養分を含まないサッカリン溶液であったりすると、やがて摂取しなくなるともいいます。
 これと同様のことは、誰もが体験しているはずです。実際、ひどく疲れたときには、甘いものが食べたくなります。他方、やたら脂っこい食事ばかり食べ続けていると、あっさりしたお茶漬けが欲しくなるはずです。


 これと似たことは、時代のとともに変化する社会全体の嗜好にもあてはまるようです。たとえば、戦後に限って「食糧需給に関する基礎統計」の年次変化を参照してみます。すると、一人一日あたりの砂糖(類)の供給量は、1946(昭和21)年の35グラムから、高度成長期にかけて急速に増加したことが分かります。
 ところが1970(昭和50)年に、その値が国民一人当たり73.8グラムで最大値を示したのちは、着実にその数値が減少に向かってきました。そこには、過剰栄養へのおびえという要因も作用しているのでしょうが、簡単にいえば「甘さへの飽き」がきざしていると考えられるのではないでしょうか。


 今ひとつ、本来が大人になって後に身につける「情報的嗜好」もまた深く「飽き」に関係しているように思われます。これについても、最初に紹介するのはぼく自身の実感です。つまり、さきに述べた好物の「ヒラメの刺身」と「ワイン」ですが、かりに毎日、食べたり飲んだりし続けていると、どうも「飽きそうだ」という気がするわけです。
 このことは、さまざまなメディアが伝えるグルメ情報に登場する高級なレストランや料理屋の料理にもあてはまるのではないでしょうか。ごく普通の日本人として生まれ、同時代の家庭の日常食に馴染んできた現代日本の大人が、これら高級なレストランや料理屋の料理を「毎日でも食べたい」とは考えないような気がするのです。
 これとおなじように、かりに「鮨が好きだ」という欧米人がいたとしても、彼らが「鮨なら毎日でも食べたい」とも思わないはずです。
 つまり、情報的嗜好にもまた「飽き」いう要因が作用するのだと思われます。

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