嗜好品文化研究会

嗜好品文化への招待
【1-9】「慣れる」と食べ続けたくなる


 それに対して「文化的嗜好」には「飽きにくい」という特徴があるようです。このことは、一般に「15歳前後まで」に形成されるとされる「おふくろの味」への親しみと嗜好の可塑性の強さを思い出せば、容易に納得できるのではないでしょうか。


 ただ、ここでその詳細に立ち入ることはしません。しかし、たとえば海外旅行に出かけたりしたときに、現代日本のおとなたちの多くが求めるのは「白米のご飯」「だしの良い香りのする、醤油や味噌で味つけした汁物や煮物」などだといって、ほぼまちがいないでしょう。これらの料理は、子供時代の彼らに、彼らの母親たちが毎日せっせと整えて食べさせた「おふくろの味」の構成要素にほかならないのです。
 むろん、先に触れたように、阪神大震災のさいに「おにぎりと味噌汁」のセットが発揮した大きな力も、これと同様に理解できるでしょう。そして、その正反対の事例が、たとえば「イスラム教徒にとっての豚肉」だというわけです。


 いいかえると「文化的嗜好」は、ある味覚への非常に強い「慣れ」を生み出すのだと思われます。その結果なのでしょう。ときに「情報的味覚」が呼び起こしがちな「飽き」の来ることが、めったにありません。このことを、やや乱暴にまとめてしまうと、われわれ人間の味覚というか、食味への嗜好は「生理的嗜好」に根ざしつつ、それを「文化的嗜好」が下支えしながら持続させる仕組みを持っているのだということになります。
 つまり、文化的嗜好は「慣れ」の果てに、味覚への強い親和性を育てるのです。やや大げさにいうと、それへの欲求を満たす食品や料理がないと満足できないという一種の「依存」を呼び起こすのだともいえます。このことが、それらの食品や料理の定常的な摂取を求めさせることで、生理的欲求を最も効率的に充足する回路を打ち立てるのです。
 ただし、これまで話題として取り上げた「そば」や「鮒寿司」などは、ぼく自身についていうと、毎日、食べ続けると、ある種の食傷がきざすかもしれないという気がします。それは、これらの食品や料理に対する嗜好が、確かに「文化的嗜好」に根ざしていながらも、おとなになってから解発されたからでしょう。そういう意味において、どこか「情報的嗜好」に似た側面を帯びるのだと考えられます。


 ところで「文化的嗜好には飽きが来ない」といっても、それだけで暮らしていては、食生活や食文化に「変化」がもたらされる契機がありません。自然や生命や社会は、絶えざる変化によってその存立が保障されるのだとすれば、ちょっと寂しい感じがします。
 ここでは、この課題への包括的な答は出せません。しかし、自然や生命や社会の「変化」は、人々の思いや嗜好が内にはらんでいる、いかんともしたがい「珍しさへの強い関心」によってもたらされるという点だけは指摘しておくべきでしょう。
 「味覚と嗜好」という領域において、そんな「珍しさへの強い関心」に応えてくれるのが、ここにいう情報的嗜好なのではないでしょうか。そしてそれは、生命の営みの基礎を支える生理的嗜好、その安定性を保障する文化的嗜好と、微妙な関係を取り結びながら補完するという役割を果たしているようです。

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