嗜好品文化研究会

嗜好品文化への招待
【2-1】コーヒーをめぐる思い出と「嗜好品」体験


 これまでに考えをめぐらしてきた「味覚と嗜好」から「嗜好品」という言葉に思いを広げてみましょう。たとえば『広辞苑』は「嗜好品」を「栄養摂取を目的とせず、香味や刺激を得るための飲食物」だと説明します。また、「コーヒー、茶・紅茶、酒、たばこ」を「四大嗜好品」と呼ぶこともあります。
 そこで思い出すのは、こんな文章です。


 凡てのエキゾティックなものに憧憬をもつて居た子供心に此の南洋的西洋的な香気は未知の極楽郷から渡つてきた一脈の薫風のやうに感ぜられた(「珈琲哲学序説」『経済往来』1923年2月号)。

 コーヒーをめぐって、近代日本を代表する物理学者にして俳人・随筆家でもあった寺田寅彦が、吉村冬彦の筆名で書いたものです。
 よく似た経験が、ぼくにもあります。「バラ」を意味するスペイン語かイタリア語だったのでしょう、「ローサ」という名の喫茶店が京都の下町にあって、10歳年上の兄が小学生だったぼくを、そこに連れていってくれたのです。分厚いコーヒー茶碗から立ちのぼる好い香り、初めて体験する苦味と甘みのきいたコーヒーの濃厚な味わいには忘れがたいものがあります。
 それ以来、おびただしい量のコーヒーを飲みました。しかし、あるときから「生クリーム」にかえて、乳化した植物油を含む代用品の「コーヒーフレッシュ」を用いる店が増えました。これがうまくない。それでコーヒーから距離を置くようになったようです。


 その後、何年を経たかの憶えはありませんが、10年ばかり前、カリブの島々に出かけました。その際に訪れた場所のひとつにジャマイカのブルーマウンテンがあります。
 首都キングストンでレゲエ・ミュージシャン、ボブ・マーリーの家を見物した翌日、自動車で急斜面をのぼってUCCのコーヒー園を訪れたのです。今では、そのゲストハウスとして使われているクレイトン・ハウス──それは19世紀初頭、ジャマイカ総督だったイギリス人クレイトン卿の旧別邸なのですが──で、淹れたばかりの最高級のブルーマウンテンを飲みました。
 戸外のテラスの椅子に座ると、緑豊かな山々は淡い、文字どおり「ブルーの空気」に包まれているかのようです。そよ吹く風が快かったのを思い出します。そこでコーヒーを、ブラックのまま口に含むと、月並みですが、ぷんと良い香りが鼻孔に届きます。そして、上品な苦味の底から、ほのかな甘みが舌に広がります。
 「うまいコーヒーは、やっぱりうまい」
 そんな、まるで意味のない言葉が、頭に浮かびました。


 こうなるとたばこが、ほしくなります。で、バニラの香りの芳醇なブラックキャプテンの葉をつめたパイプをくゆらしてみました。火皿から藍色の煙が立ちのぼります。
 その煙を眺めながらコーヒーを楽しんでいると、日本からの長旅の疲れが遠のいていくような気がするのです。そんな気持良さに、しばし浸ることができたのでした。

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