嗜好品文化研究会

嗜好品文化への招待
【2-4】嗜好品をめぐる経済観念の不思議とその経済的機能


 もともと「嗜好品」は「栄養摂取を目的とせず、香味や刺激を得るための飲食物」でした。言い換えれば、それがなくても生存が脅かされることはないということです。
 それが現代という時代には「必需品なのかもしれない」というのは、ちょっと無茶な物言いなのかもしれません。とはいうものの、嗜好品をめぐる経済観念に不思議な性質のあることは否定できそうにありません。


 そこで連想が、いまどきの酒類の安売り店なら2,000円あまりで手に入るスコッチウイスキー「ジョニ黒」の昔の値段につながります。というのも、大卒男子の初任給がようやく3万円の大台に乗った1970(昭和45)年ごろには、それが1万2,000円もの高値を呼んでいたからです。当然、安月給の新米サラリーマンだったぼくなどには、とうてい手の届く酒ではありませんでした。
 ただ、ほんのときたま、知人の海外旅行みやげとして、それが手に入ることがありました。そんなときは、絶妙の香りに心が騒いだものです。それが忘れられずに、本当に無理をして、財布をはたいたことも1、2度はあったように思います。


 さて、そこで......。人間が「生存に不可欠な必需品」を手に入れる際には、いわゆる経済観念が頭をもたげます。米やパンは安いほうがありがたい、というわけです。ところが、嗜好品には、ときに正反対の価値観の作用することがあるのです。さしずめ40年ばかり昔に、無理をして買った「ジョニ黒」などは、その一例なのでしょう。
 このことは、たんにぼくの生活史における経験に根ざしているだけではありません。嗜好品が生活や社会や経済に及ぼす影響には、意外に大きなものがあるのです。


 たとえばアラビア半島の南端にイエメンという国があります。それは、みずからを「アラブの源流」だと自負する誇り高い人々の国です。
 そのイエメンでは毎日、男たちが「カート・パーティ」に出かけるといいます。昼過ぎに誰かの家に集まり、皆でカート(アラビアチャノキ)という名の植物の葉を、くちゃくちゃ噛み、コーラや水などと共に、その汁を飲みながら、おしゃべりを楽しむのです。
 しばらくすると、皆の気分が落ち着き、静謐の空間のなかで「同じ時間を共有している」という不思議な感覚が広がります。このことが、そこに集まった人々の、仕事を含めた日常の人間関係を、より確かなものにする上で大きな役割を果たしているのだそうです。
 イエメンは、けして経済的に豊かな国ではありません。1人当たり国内総生産額(GDP)は日本の100分の1以下、年間400ドル程度です。なのに、カートの生産額が農業生産の40%余りを占めています。しかも、そのカートの流通が、この国の経済全体の活力を根本のところで支えているといいます。不思議な話なのではないでしょうか。


 そういえば100年前、20世紀初頭の日本でも、1億円前後だった国家予算の30%余りが酒税とタバコ消費税でまかなわれていました。この酒税とたばこ消費税こそが、1904(明治37)年に勃発した日露戦争の戦費をまかなったのです。
 嗜好品が果たす経済的な役割には、侮れないものがあるというほかありません。

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