嗜好品文化研究会

嗜好品文化への招待
【3-3】日本への「茶の到来」から「茶の湯」まで


 香辛料が、近代世界を地球規模に拡大しはじめた時代に、日本では茶という飲み物が、その文化と社会をじわじわと変化させる役割を果たしていました。


 茶が最初に日本に伝わったのは9世紀はじめ、嵯峨天皇のころだとされます。その後、あらためて1191(建久2)年に禅僧の栄西が持ち帰り、有名な『喫茶養生記』を書きました。そこには「茶は養生の仙薬、延齢の妙術である」といった意味のことが記されています。このころの茶は、一種の「薬」のようなものだと考えられていたといえるでしょう。
 それから約300年、15世紀末に村田珠光が出て、茶の湯が緒に着きます。16世紀には千利休が、その様式を完成しました。その美学は「市中の山居」という言葉に集約されます。すなわち、当時の世界でベネチアと並び称された、堺という大都市のただなかに、あたかも山中を彷彿させる庭を造り、小さな茶室を建て、茶を遊ぶことをめざしたのです。それを利休の弟子の山上宗二は「一期一会」の名で呼びました。


 こうした「茶を嗜好品として楽しむ室内芸能」が成立した背景には、1467(応仁元)年に勃発した応仁の乱あたりから100年余にわたって戦いに明け暮れた時代の世相があります。それは人がいつ、どこで刀や毒薬で暗殺されるか分からない時代だったのです。
 しかし、そんな状況下でも、人は人と出会いたいと思うものです。それに応えたのが茶の湯だったというわけです。ただ、このことがポルトガル人には、よほど珍しかったのでしょう。カトリック教会の司祭にしてイエズス会の通訳であったジョアン・ロドリゲス(1561〜1633)は、その著『日本教会史』に茶の湯に関する細かい記述を残しました。
 不思議はありません。日本人なら誰もが知っているように、茶の湯の席には、高さ2尺3寸(約69cm)、幅2尺2寸(約66cm)ほどの「にじり口」から入ります。そして相手の目の前で点てた茶を、主客が共に嗜みます。
 なぜ、そんな面倒なことをするのか。それが、ロドリゲスには不思議だったのです。


 そこで考えてみると、まず、鎧兜や刀を身につけては「にじり口」が通れません。それに、相手の目の前で点てた茶に毒薬を入れることは不可能です。戦国の世が終わりに近づいたころ、ついに茶の湯は、人と人とが安心して出会える場を生み出したのでした。
 こうして日本では、ヨーロッパよりも早い時期に、殺し合いを排除する近代的な礼儀作法が成立しました。それは同時に、客人を手厚くもてなす精神文化でもありました。ここで「もてなす」とは、主客が「何か」──茶道具、掛け軸や置物、茶室の外の庭、その場の話題など──を共に「持って」新しい価値の創出を「成す」という意味です。
 さらに「侘び寂び」という日本的な美の一類型、つまり「世間を渡る人なら、多かれ少なかれ具えている虚飾を捨て去った後に残る清らかな美しさ」を追求する美学や宗教性までをも、茶の湯は追求し続ける運命を背負うことになったのです。


 こうした動きは、のちの明治時代、岡倉天心『茶の本(The Book of Tea)』に引き継がれます。同時に茶の湯は、16世紀に勃興した武器商人と戦国武将を出会わせることで、非常に早い時期に、この国の近代的な資本主義経済の地ならしをすることにもなりました。

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